第5話 森しづか

「龍ちゃーん」

「ん、かけすぎるなよ」

 お母さんはだらしないところが多い。朝は誰かに起こされないと起きてこないし、ご飯の用意だってできない。洗濯物は脱ぎっぱなしだし、お風呂に浸かるのは好きなくせに髪を洗うのは嫌がる。服だってお父さんに手伝ってもらわないとちゃんと着れないし、着る服も自分で選ばない。多分見たことはないけど買い物とかろくに出来ないだろうなって思う。それくらい、だらしない。大人なのに。

 時々、大人じゃないんじゃないかって思う。

「龍ちゃーん」

「ん。同じくらいでいいな?」

「んー」

 龍ちゃんというのはお父さんのことだ。昔からずっとそう呼んでるらしくて、家にいる時はお父さんもお母さんもお互いのことをちゃん付けで呼ぶ。龍之介だから龍ちゃん。こころだからこころちゃん。わたしももっと小さい頃はアリスちゃんって呼ばれてた。

 お父さんとお母さんが仲がいいのは娘のわたしからすると決して悪いことではないのだけど、でもそれが度を過ぎているんじゃないかと思う時もたまにある。

「ひゅうちゃーん」

「あー、ちょっと待ってろ」

「なんで何も言ってないのに判るの?」

「「え?」」

 前々から思っていたことを聞くと、両親揃って間抜けな顔をしてた。

「お母さん、さっきから『龍ちゃん』しか喋ってないよ」

 しかも、何かジェスチャーがあったわけではなくただお父さんの顔を見て名前を読んだだけだ。3回目は口いっぱいにご飯を頬張って、ちゃんと発音すらしてない。

 それなのに、お父さんはちゃんと醤油を取って、ご飯のおかわりをよそって、今も空になったお茶のピッチャーを取って来た。意思の疎通が二人の間では出来てるのだ。わたしには判らなかったのに。

「なんで?」

「なんで、と言われても」

「ねえ」

 そんな風に、夏目家の朝食は進む。ウチのリビングにはテレビが無いので、聞こえるのは食器の音とわたしたちの会話に、早いうちから鳴きだした勤勉な蝉の声くらいだ。

 夏休みに入る前から猛暑日を連日更新しているので、今日もまたそうなんだろうなと思いつつ、休みの時はエアコンの効いた家からほとんど出ないのであんまり関係もない。

「お母さん今日は何やるの?」

 今日からはわたしも一日中作業ができる。なので、アトリエの使う予定を確認しようと思ったのだけど、

「今日は水彩かしらねー」

「あ、こころちゃん。今日しづかさん来るぞ」

「え、何かあったっけ?」

「個展近いでしょ。2時頃来るって」

「はーい」

 そういってお母さんは新しく注ぎ直したお茶を呷る。喉をさらしてごくごくと一気に飲んで。こういうところ子供っぽいというか、大人らしくないというか。端的にいって行儀の良さはない。

「アリスは、昨日のやるよね」

「うん」

 昨日の夜書き上げた下絵は、そのまま下のアトリエの保管室に移動してる。お父さんはいつも朝にアトリエの空調を付けに行くからその時に見たのだろう。

「じゃあ、一緒に用意しとくわ」

「ありがとう」

 お父さんは、家で家事全般をやってくれるだけじゃなくて、お母さんの絵を描く作業がスムーズにできるようにその他の色々をしている。

 画材の準備もそうだし、作業室を整えたりするのもそう。一応、仕事としてはお母さんの絵の活動をサポートするプロデューサーみたいなもので、さっき言ってたように個展を開くときの会場の準備とか、その他にもわたしも知らないような色々なことをだいたい全部引き受けている。

 絵を描いていないときのお母さんはだらしなさが人の形になったみたいな生き物なので、それを一応人間にするためにいろんなお手伝いをしてる、らしい。

「格好いい言い方をするなら、生きるのを手伝ってる」

 普段のお母さんを見ているとその言い方に妙に納得してしまうけど、お母さんはそれでいいんだろうか。

「生きるのに必要なものが何かを見つけるのも、大人になることなのよ。私の場合はそれが絵を描くことと、龍ちゃんだったってだけね」

 お母さんは、胸を張ってそんなことを言う。張ったところであまりふくよかにはならないけれど。

「まあ、家族だしね」

 お父さんもそういう風に言われて嬉しそうに言うけれど、家族になる前からそんな感じだったとも聞いている。

 うーむむ。

 やっぱり「お金目当て」って言葉がくるくるするけど、でもお母さんもちゃんとお父さんのことを好きなら、それでもいいのかもしれない。

 少なくとも、ああいう風に通じ合えるってことは、お互いにそういう、「好き」って気持ちはあるんだろうし。んーでも、

「判んないなぁ」

「大人になれば判るわよ」

 自分より背の低い大人にそう言われて、ムッとしてしまうくらいにはわたしはまだ子供だった。



 しづかさんは、お母さんの数少ない友達だ。って聞いてるけど、大体ウチに来るときもお仕事の話に来ているのでどちらかというとお父さんの友達なんだと思う。

 お仕事は画商といって、お母さんの絵をいろんな人に売ったり、展覧会を企画したりする人だ。一番最初にお母さんの個展を企画したのもしづかさんだと聞いている。いつの話かは知らないけれど。

「アリスちゃん久しぶりね、大きくなったかー?」

「変わってないです」

 何しろ最後にあったのは先週だ。

 いつ見ても、しづかさんは綺麗っていうイメージがまず最初に来る。真夏でもワイシャツをきっちり着ているというのもあるかもしれない。スラックスに包まれた足はすらりと長いし、多分身長もお父さんと同じくらいある。短く揃えた髪は明るい茶色に染められていて、それでも歩くたびにサラサラと揺れる。冬はこの上にスーツのジャケットを着るので、それは本当に格好良い。

 大人の女性って感じで、お母さんとはえらい違いだ。

 そんなしづかさんは昼過ぎに訪ねて来て、さっきまでお父さんと一緒に次の個展の打ち合わせをしてた。8月から結構長めに開かれる個展は、大きな美術館を押さえているのもあってその開幕イベントとかも結構大きくやるらしい。

 打ち合わせの後、アトリエに来てお母さんと話したり、こうしてわたしの絵を見たりしてくれるのがいつもの流れだ。

 わたしは、ちょうど書き終えた絵をイーゼルから降ろすところで、一旦そのまま乾燥させることにした。

 向き合うとしづかさんの背の高さが明確になる。作業台に腰かけているけれど、組んだ足の長いこと長いこと。ピアノを弾くようにタラランと机を叩いてる指もすらりと長くて、なんとなく煙草が似合いそうだなーと思った。

 ウズ、と絵にしたい欲が湧いてくる。

「そういえば、アリスちゃんあれね。日本代表なってたね。国際絵画コン」

「あ、はい。ありがとうございます」

「いえー、おめでとうございますー」

「でも、よく知ってますね」

「そりゃあね、未来のお得意様ですから」

 しづかさんは、画商というだけあって色んな画家やコンクールに詳しい。自分で描けるというわけではないらしいけれど、今日本でどんな人がどんな絵を描いているのかだいたい知っているのが私の仕事だと、ことあるごとに言っている。

「それに、今回はウチの娘も出してんのよ」

「娘さん?」

「そそ」

 それは初めて聞いた。というか結婚していたのか。いや、それもそうか。言い方は悪いけどウチのお母さんですら結婚しているのだ。

 魅力の詰まったしづかさんに旦那さんがいても、何らおかしなことではない。

「アリスちゃんと、えー、五つ違いかな。うちの子中三なんだけど、アリスちゃんと同じで、代表選ばれてるのよ」

「そう、なんですね」

 正直に言って知らなかった。まぁそもそも娘さんの存在を知ったのも今だし、わたしは自分以外の代表のことを絵も名前も覚えてはないんだけれど。

 今回の青少年国際コンテストではいくつかのカテゴリごとに三人ずつくらい表彰される。ひょっとしたら一緒に受賞することがあるかもしれない。

「後で、見ておきますね」

「そーしたげてー。あいつね、アリスちゃんのファンみたいだから」

「え」

 しづかさんはにっこりと笑っていた。何の裏もないその笑顔は見ていて気持ちよくて、それを向けられるだけでちょっと照れ臭くなる。

「わたしの、ですか。お母さんじゃなくて」

「うん、そう言ってた」

「会ったこと、無いですよね」

「そりゃそうだけど、絵のファンだもの。見る機会はたくさんあるでしょう」

「それはそう……ですかね?」

「一応言っておくと、夏目アリスって名前はもう結構有名だからね?」

 夏目こころの娘っての差し引いても、としづかさんは続けた。

「そう、なんですね」

 一瞬、お世辞かもしれないとは思ったけど、しづかさんはそういうのをあまり言わないのを思い出した。悪い絵は悪いって言わないと画商として信用してもらえない、とかなんとか。

 なるほどと思うと同時に、自分がそういう人からの信頼を得られていることが嬉しくなった。ちゃんと絵を理解できる人から、良い絵を描いていると評価されている。それはやっぱり将来的に画家を目指すわたしとしては成果の一つだ。言葉にはしなかったけれど、それはしづかさんに伝わったらしく、

「今度、連れてこよっか」

 ちょっと間違って伝わってた。

「そ、それは、別に」

 しづかさんの娘さんがどんな絵を描くのか興味はあったけど、会ったことのない人で中学生というだけでもちょっと遠慮気味なのに、ファンって言葉まで意識してしまうと、何も話せなくなりそうだった。

 わたしの中で、わたしの絵を好きな人とそうでない人の区別は結構大きい。わたしの絵を知らない人ならどう思われても別に構わないのだけど、わたしの絵を好きな人にはわたしより「わたしの絵」の方を好きでいてほしいと思うのだ。

 わたしを知ることで、それが少しでも損なわれるなら、それはちょっとやめておきたい、と思う。

 そんなことを話すと、

「あーら、親子揃って奥ゆかしいこと」

 しづかさんはけらけらと笑うのだった。

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