空色
坂崎かおる
男は刑事である。老刑事と言っていい。彼はひき逃げが起こったという現場に来ている。犯人の車を見たという若い巡査が言った。
「車はセダンタイプで、ナンバーは見ていません。運転手の姿は男の様にも見えました」
老刑事は他に特徴がないかと訊ねた。
「特にはありませんが、
巡査はそう言い、老刑事は「空色?」と聞き返した。ええ、と巡査は頷いた。
「空色という事は、青っぽかったということか?」
そう老刑事が問うと、若い巡査は困ったような顔をした。
「いいえ。空色は、空色ですよ」
巡査はそうして、自分の持ち場に戻っていった。老刑事はぼんやりその姿を見送った。
彼はそれから、警察署へ戻る途中で蕎麦屋に寄った。蕎麦屋は昼時で混んでおり、サラリーマンの姿が目立った。彼の後ろの席に座ったサラリーマンの二人連れは、昨今の経済状況について話し合っていた。
「こう円高が続くと、うちの会社もやばいんじゃないか」
「今年のボーナスもきついかもな」
「全く空色みたいな毎日だ」
どきりとして、老刑事は思わず後ろを振り返った。二人は話を止め、彼の方を怪訝そうに見た。刑事は曖昧に笑みを浮かべ、蕎麦が来るのを待った。
警察署に戻ると、別の管轄の警察署に、ひき逃げの犯人が出頭してきたということだった。同じ課の若い刑事が聴取に向かったという。彼はやれやれと自分の席に腰を降ろし、今日の報告書を書き始めた。
「お疲れ様です」
総務の女性署員が、お茶を運んできてくれた。彼はありがとうと言い、それから今日のことを思い出し、窓の外を見やった。
「今日はいい天気だったな」
「ええ、雲ひとつなくて」
「ああいうのを空色って言うんだろう」
女性署員は少し考えるような仕草をして、「もしかすると、そう言う方もいらっしゃるかもしれませんね」と控えめに答えた。そうか、と彼は呟き、もう空は見なかった。
老刑事は報告書を書き終えると、定刻に帰宅をした。夕飯の前に、彼はいつも風呂につかる。風呂の中で彼は考えた。
昔、自分の甥子に色覚障害の子どもがいた。緑色を感じる感覚が弱い型だったそうで、小さい頃は川をピンクで塗っていたことをよく覚えている。それは「正しい色」ではないのかもしれないが、「正しい色」とは何だろうか。「正しい」とは、それこそ多くのコンセンサスが得られて成り立つものであり、結局は多数決の世界なのではないか。そこまで考えて、あるいは物事は逆に進んでいるのかもしれないなと、彼は思った。そして小さく笑った。
風呂からあがり、夕食を家族と囲んでいると、テレビで今日のひき逃げ事件を報じていた。彼の娘が、事故車の車の映像を見て、「空色なんておしゃれだね」と言った。彼もその映像を見たが、特に何も言わなかった。
寝る前に、彼の妻が、明日のワイシャツとネクタイを用意してくれた。電気を消し、彼は先に布団に入った。妻は化粧台の前で手入れをしていて、そこだけ明かりがぼんやりとしている。彼は目を閉じた。それから、妻に尋ねた。
「そのネクタイは何色だ?」
彼の妻は彼へと向き、それからハンガーにかかっているネクタイを見て、「紺色ですけど」と短く答えた。そうか、と老刑事は呟き、眠りについた。
しかし彼は思っていた。あれは空色なのではないかと。
〈了〉
空色 坂崎かおる @sakasakikaoru
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