第15話

「ぁっ……」

 メルは崖の淵に必死に手を伸ばすも、ただ無情に地上が遠のいていく。重力で離れそうになるレオンの体を、ぎゅっと抱き寄せ、いつ訪れるか分からない谷底での衝撃に備えた。

「大丈夫、レオンは死なせないから……」

「……。」

 危機的状況下の中必死に紡いだ言葉も、依然として意識が朦朧としていたレオンからは返事はない。

 一体どれだけ落ちれば底に辿り着くのだろうか。そもそも底は存在するのだろうか。落ち続ける度、様々な不安と恐怖が頭を過り、まだ落ち始めてほんの数秒のはずなのに、体感ではその何十倍もの時間を落ち続けている感覚に襲われた。

 やがてメルは抵抗することをやめ、落下に身を任せ目を閉じた。そうして溢れ出た一滴の涙が目尻から浮かび上がるように離れ宙へ浮くと──何かに当たり激しく弾けた。

「……?」

「早く掴まるんだ!」

 その声の主はメルよりも速い落下速度で下降し、メルの体と並行になる。暗闇の中、メルは藁にも縋る思いで手を伸ばし、その体の一部を掴み──徐々に落下速度が緩やかになっていき、怪我一つ負うことなく谷底に着地した。

「た、助かった……」

 着地した衝撃で、辺りにいた七点光虫たちが体を輝かせ、宙を舞っていく。その光が声の主である好青年を照らした。

「礼には及ばない。丁度パトロール中でよかった」

 髪はオールバックに上げられ、眉毛はキリっと整えられている清潔感溢れる面様。口には黄と黒がセパレートになった嘴が描かれたマスクをしており、それを徐に外すと、黒い羽に白の鱗模様がついた羽が徐々に人間の腕に変わっていった。

<ラピッド=ファルコン 男 隼族 速騎士団 雷属性 共鳴三・五層>

 真っ白い歯を見せニカッと笑うと、メルの頬は自然に赤くなる。

「とにかく話は後だ。まずはここから出よう」

「は、はい……」

 メルを包む空気は一転、死を覚悟していた戦士から、か弱い乙女へと変貌を遂げた。

 ──ァァァァァ……。

 そのとき、森の奥からどこかで聞き覚えのある男性の戦慄き叫ぶ声が聞こえた。

「俺たち以外にも人が……?」

「今の……」

 必死に思考を巡らせたメルの頭に、ふと水晶甲虫に飛ばされたときの記憶が過ると、再び戦士の風貌へと戻り。

「おい! どこに行く?」

 抱えていたレオンをラピッドに委ねると、ラピッドの声に耳を貸すこともなく、声の方へと走っていった。

 やがて、石巌続きであった道に不自然に作られた森が現れる。既に入り口から不穏な空気が漂っており、一瞬足がすくみそうになるも、脳内にこだましたカイザーの悲痛が、再び足に力を入れさせた。

 そして最深部の集会場へと辿り着いたメルが目にしたのは、一人の男性の前で両膝をつき、むせび泣くカイザーの姿だった。

「カイザー……んんんっ……」

 メルは体内の血液を一気に沸騰させ、直ちに助けに行こうとしたその瞬間、何者かに口を抑えられ、力ずくで体ごと近くの木の裏へ引きずり込まれた。

「んんんー!」」

「静かにしろ。俺だ……」

 レオンを背負ってやってきたラピッドは、必死に足掻き抵抗するメルをなだめるように、声を殺しながら耳元で囁く。

「友達の前にいる奴は黒焔教のリーダーだ。迂闊に近づくと厄介ごとに巻き込まれる。とにかく隙を見計らおう」

 ラピッドの的確なアドバイスも、メルのとめどなく溢れる正義感を抑止することはできなかった。

「……友達が苦しんでるのをただ見ているより、巻き込まれて死んだ方がマシです!」

 メルは決然たる瞳で力強く手を払いのけ、木裏から勢いよく飛び出した。

「おいっ!」

 がその刹那、黒焔に覆われていくカイザーを目の当たりにすると、メルは急激に鉛のように重くなった足をピタリと止めた。

「……なんで」

 同じくしてその光景を見たラピッドは、直ちにマスクをつけると、レオンとメルを変化した前足で掴み、地上へと急上昇した。

「オブリガードッ!」

「……ふんっ、今日はやけに来客が多いな」

「団長。あいつらはどうしますか」

「放っておけ。そんなことよりも、我々には、今このときを存分に味わう義務がある」

 その間も、自分の見間違いだと信じたかったメルは、カイザーから放たれる黒焔を見続けた。

 しかし、メルの望みとは裏腹に、黒焔は勢いを増すばかりだった。


「うあぁぁぁぁ────────‼‼」

 カイザーの戦慄き叫ぶ声が谷中に轟き渡る。

(なぜそれを……)

 レイブンから手渡されたのは、亡き父親シルバのマスクだった。それを見るや否や、あれほどまでに否定的だったオーカも心を乱し、溢れるように出る黒焔がカイザーの体を包み込んでいった。

「くくくッ……。やはりお前も受け継いでいたのだな! 気高き黒焔の力をっ!」

 レイブンは歓喜に満ちた表情で瞠目する。

「あぁ、何と美しい‼ おい、皆、見ているか⁉」

 声を躍らせそう呼び掛けると、周囲の葉陰から他のメンバーが次々と顔を出していく。

「今日は我ら黒焔教にとって、歴史歴な日になるぞっ……!」

 瞬く間に激しさを増し燃え盛っていく黒焔の前で唾をゴクリと飲み、歓喜のあまり、顔が引きつるような笑顔が漏れる。

「君の父は死んだとされ、この領域全体で真実を隠蔽され続けてきた。その痛みを、怒りを、苦しみを、全て晴らす時がきたのだ!」

 その言葉は火に油を注ぐように黒焔を増幅させていく。

「さぁ、偉大なる神よっ! 再びこの腐った領域に命を吹き込んでくれ!」

「ヴあぁぁァァァァ────‼」

 悲痛な叫びとともにカイザーの体は黒焔に飲み込まれていき、無造作に燃えていた黒焔が巨人の形を帯びていくと、声も巨人が放つ厳かな憤怒の雄叫びへと変化した。

 そして暴走を始めた巨人は、凶器と化した両腕を本能のままに薙ぎ、暴れ始め、周囲の木々は次々に燃え、谷の岩壁をも抉り取っていく。

 飛び散った大粒の岩石は隕石のように集会場へ降り注ぎ、他の教団員たちはそそくさと避難を始める。

「レイブン様、ここは危険です。私たちも場所を移しましょう」

「いや……。もう少し、この絶景を目に焼き付けたい」

「しかし……」

 巨人の姿に完全に陶酔するレイブンを見たピエロは、説得を断念し、仕方なく他のメンバーと共にその場を離れる。

 その間も黒焔は留まることなく増幅していき──やがて体長は十メートル近くにまで成長すると、長い腕を伸ばし谷の淵に指を掛け、その桁違いの膂力だけで自身の巨体を地上へと上げた。


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