第5話

「全員いるようだな」

 ヴォルクスは木床に横一列に並ぶ七人の生徒たちを一瞥すると、抱えていた蔓(つる)籠(かご)を床に置いた。

「昨日も言ったが、お前らが新入生だろうが容赦はしない。訓練についてこれない奴は即刻抜けてもらう」

 入学して間もない生徒に対してとは思えない辛辣な言葉。が、誰一人として気圧されている様子はなく、全員がヴォルクスの目を頑と見つめていた。

「気合だけは認めてやる……」

 と自分にしか聞こえない程の声量で言葉を漏らした後、言葉を続けた。

「わかっていると思うが、騎士になるためには属性果の力を宿すことができる三層まで共鳴深度を引き上げなければならない。それを三か月で行うとなると、これまでの方法の訓練ではまず無理だ」

 共鳴深度とはその名の通り、相棒との共鳴の深さを示す指数であり、一層から五層で示される。己の深度は、左手の甲に相棒の爪痕の本数で表され、各層に到達すれば自然に爪痕が刻まれる。そして各層に到達するためには、層別に定まった『深歩指針』をこなさなければならない。

 一層は共鳴状態で一通りの動きができるが、まだ不安定な状態である。深歩指針は、互いを信じ契約するというところから『信』。

 二層では共鳴が安定し、共鳴時間も延び、本来の相棒の力を享受し戦うことができるようになる。深歩指針は、鼓動の乱れは共鳴の乱れに繋がることから、常時平常に鼓動を保つ強靭な心臓に鍛え上げるということから『鍛』。

 三層は、未だ己の知らない過去を知り、それを受け入れ乗り越えることで、到達することができる。深歩指針は『知』。そしてこの三層まで到達した者のみ、騎士団に入団することができるようになる。

「そこでだ」

 ヴォルクスは蔓籠を漁り始めると、蔦で編みこまれ作られたマスクのようなものを一人ずつに配っていった。

「学長がお前たちのために特別に作ってくださった物だ。詳しくは俺もわからないが、特殊な蔦で作られていて、一度の呼吸で取り込める酸素量が制限される仕組みになっているらしい。つまり、これを口に着けた状態で訓練に励むことで、通常よりも心臓に負荷をかけられるというわけだ」

 ま、こんなダセェの俺なら絶対にごめんだがな。と喉元まで上がってきた心の声は無理矢理飲み込む。

 生徒たちは皆それを口元につけると、蔓の両端が磁石のようにくっつき、首の後ろで絡まる。寸分も動く余地なく固定されたその姿は、まるで口枷を着けられた囚人のようだった。

「今日からこれを着け、共鳴二層へ深度を引き上げるための訓練を行う」

 ヴォルクスは再び蔓籠を漁ると、今度は丸く黒光りした手のひらサイズの球体を取り出した。

「食べ物くれるんだったら、ちゃんと食べれる物がよかったなぁ……」

 とメルは不満げな顔を浮かべる。

 それもそのはず。それは全領域内で最も硬く、中の身を取り出すために、強力な腕力が求められる果物、『絶硬果(ぜっこうか)』であった。

「これからお前たちにやってもらうのは、この絶硬果を割ることだ。それも、道具を使って割るのではなく、共鳴した状態の拳一つでな」

「そんなことなら、簡単だぜ」

 説明が終わるやフェロズは意気揚々と前に出ると、受け取ったそれを床に置く。

 次いで左手を口に翳しマスクをつけたフェロズは、全身が茶黒いの獣毛に覆われると、頭上には小さい猫耳を生やす。口元のマスクには、相棒であるウルヴァリンの猛々しい歯が刻まれていた。

「スパシーバ!」

(おいおい、ほんとうにやるのか?)

(なにびびってんだ⁉ こんなの俺たちの力がありゃ楽勝だぜ!)

 根拠のない自信を胸に拳を作り、腕を引く。

「とりゃぁぁぁぁ────‼」

 我武者羅に拳を振り落とされた拳は絶硬果の中心を捉えると、ゴツッ。と鈍い音だけが屋敷内に響き渡った。

「……あ?」

 もちろん絶硬果にはヒビの一つも入らず、対し放たれた拳はみるみるうちに赤く腫れあがると、フェロズは痛みに悶え、木床をのたうち回った。

「相変わらず、馬鹿……」

 蔑むような眼でソラが呟き、他の生徒たちも皆呆れ顔を浮かべた。

 そんなフェロズを横目にヴォルクスは、徐に絶硬果の前に立つと、小指から順に指を折り曲げ拳を作り、すっ、と短く息を吸い。

「はっ!」

 吐いた息と共に稲妻のような速さでそれを振り落とした。すると衝撃を受けた絶硬果は、まるで刀で切られたかのように真っ二つに割れ、中からは茶色の丸い果実が顔を出した。

 その滑らかで、且つ洗礼された動きに圧倒された生徒たちは、初めて見る絶硬果の実を呆然と見つめた。

「力の奴らならともかく、全の俺たちがただ力任せに拳を振り落とすだけでは絶対に割れない。ちゃんとした手順を踏み、確立された型で突いて初めて割れる果実だ。そこでお前たちには、その型である『正拳突き』を体得してもらう。その型で拳を打てば、力の奴らにも劣らねぇ威力を出せるってわけだ」

 割れた絶硬果の実だけを拾い上げると、一口だけ齧り話を続ける。

「さっきも言ったように心臓を鍛えながら体得してもらう。そのためにまず『試練の崖』まで行き、己の身一つで頂上まで登ってもらう。そして酸素の薄い頂上で訓練することによって、二層への到達を速めながら型を体得できる。まさに一石二鳥ってわけだ」

「しかし先生、今からどれだけ急いで行ったとしても半日はかかります。そこから登るとなると……」

 フェンサーは皆の声を代弁するかのように恐る恐る口にする。

「あぁ、俺だって走ってあんな遠い場所に行くのはごめんだ。だから今回は特別に、こいつの使用許可をもらってきた」

 羽織っていた灰色の上着のポケットから、幾本の蔓が絡み合い球体になった、蔓(つる)玉(たま)を取り出し床に転がした。

 途端、玉は解けるように開くと、形成していた蔓が床を這い、生徒たちの足に絡みつく。そして玉の中央からは、翅色が七色の水晶のように輝きを放つ虫、水晶甲虫(クリスタルワーム)が蔓と繋がれた状態で姿を現した。

「これは学長が水晶甲虫専用に作った蔓籠だ。この蔓に繋がれた人間は全員こいつの効力を受けることができる」

 水晶甲虫とは、フォースクリスタルが四つに分裂した際、生じた粉塵を浴びたことにより、テレポート能力を身に着けた虫である。そして虫かご兼テレポート装置として作られた蔓玉は、刺激を受けるとテレポートが発動するという水晶甲虫の特性を活かし、ワームと繋がっている蔓握ると、微弱な電流が発生するように作られていた。

「いいか。全集中力使って着地点を想像しろ。少しでも雑念が入れば、滝つぼに真っ逆さまだ。ま、溺れ死にてぇなら構わないがな」

 生徒たちは皮肉交じりのその言葉を固唾と共に飲み込みながら、足に絡まった蔓を握り、目を閉じていく。

 そして最後に、ヴォルクスは水晶甲虫と繋がった蔓を手に取り、泰然と握りしめた。


「「「うわぁぁぁぁぁぁぁ────」」」

 ドサッ。

 突如空中に放り出された一同はバランスを崩したまま落下すると、ワープに慣れていない生徒たちは一斉に尻餅を着いた。

 皆、その痛みに顔を歪め、尻を摩りながら立ち上がる。

 その前方には、遥か上空に頂上がある厳めしい『試練の崖』。その頂上からは癒水が轟音を立てながら流れ落ち形成された、『真実の滝』。癒水を森全体に供給する役割も果たすその滝の表面は、相棒の過去を映し出す鏡としての力を併せ持っていた。

 そしてそれらが落ちた麓には巨大な滝つぼが生まれ、その中心に一本の細道が延び、滝と地上を繋いでいた。

「さっさと立て、情けねぇ」

「先生、レオン君の蔓が……」

 ヴォルクスの冷然とした声に、おどおどとしたメルの声が重なる。

 ヴォルクスは声の方に顔を向けると、一本の蔓が滝つぼの中へ伸びているのを捉えた。

「……ちっ、めんどくせぇ」

 だるそうに、だがどこか切迫した面持ちで言葉を漏らしながら地を駆け出したそのとき、マスクをつけたカイザーがその隣を追い越し、滝つぼに勢いよく飛び込んだ。

 ポコポコポコ……。

(……だめだっ、全然切れない‼)

 口から大量の泡を吐きながら、岩陰に絡まった蔓を必死に引っ張るも、水中という不慣れな環境が焦りを増大させ、冷静さを失わせる。

(落ち着け! マスクを付けろっ!)

(無理だっ……、息が……)

 ポコッ。

 体内の酸素だけが無情に消耗する。

 徐々に意識が薄れ、握力が泡と共に消えていく。

(レオン、しっかりしろ……)

 視界が狭まり、リエフの声が遠のくのを感じ……。

 そのとき、視界の端で何やら黒い影が近づいてくるのを捉えると、同時に意識を完全に失った。


「……おいっ、おいっ、起きろっ!」

 ぼんやりと聞こえる声を手繰り寄せるようにレオンは目を開く。

「ったく……。お前だけ雑念が入って座標がズレたんだ。後であの黒髪に礼言っとけ」

「黒髪……」

 呟きながらびしょ濡れになった体を起こし、ヴォルクスの視線の先を見ると、地面に座り水面を眺めていたカイザーの姿があった。

「カイザー君凄かったんだよ。誰よりも早く水中に飛び込んで、レオン君の体を水面に押し上げてきたんだ」

 フェンサーは興奮気味に声を躍らせ。

「たしかに、あの判断の速さは中々のやった」

 他人を褒めないティグリスも、ぼそっと称賛の声を漏らした。

「せやけど、そもそもなんで鯱族がこの学校におるんや? 氷床出身やったら、海の方じゃないんか?」

「今年、海の方は新入生いなかったみたいだよ。だから特別にこっちに来たみたい」

 守護者学校は創造の森と生源の海の計二校存在し、それぞれの環境に適した相棒を持つ生徒たちが通うこととなっている。

 森校を卒業した者は創造の森か展望の丘に、海校は生源の海か、氷床の孤島に騎士として配属することとなる。

「……さっきはありがとう」

 カイザーの元へ歩み寄ったレオンは、心からの感謝の気持ちをその背中にぶつける。

 その声を受けたカイザーは、背を向けたまま鷹揚と立ち上がる。

「……あんな蔓一本も切れねぇ奴がゴルドの息子とはな。聞いて呆れるぜ」

(こいつッ!)

 瞬間的に怒りの沸点に達したリエフの声が、レオンの心の中で広がる。

「……そうだよね。俺も、もっとカイザーみたいに強くなれるように頑張るよ」

 悔しさを隠すために無理矢理笑顔を取り繕うも、カイザーは一瞥することもなく皆の元に戻った。

 頂上まで登って来い。改めて集合した生徒たちにそうとだけ告げたヴォルクスは、蔓玉を使いその場から姿を消した。

「登って来いって言われても……」

 戸惑いが隠せないフェンサーの声とともに、皆一斉に断崖絶壁の崖を見上げた。頂上は全く見えず、そこまで辿り着くことができるルートが存在するのかと疑ってしまうほど、表面の窪みや突出が少なく、どれも浅かった。

「これはマスクつけても意味なさそうやな……」

 マスクをつければ相棒の膂力を得ることができるが、その分体重は重くなる。相棒が飛行系であるならばまだしも、そうでない相棒ばかりであった生徒たちにとって、このような崖を上るには逆効果であった。

 皆、崖を茫然と眺め逡巡する中、最初に崖まで続く一本道へ足を踏み入れたのはカイザーだった。

 恐れを感じさせない出で立ちで進む背がレオンの目に映ると、ふと先程の言葉が頭を過り──レオンも追いかけるように歩みを進めた。

 後の五人も一人ずつ一本道を進み崖の正面まで来ると、その足場から崖に飛び移った。

 いざ登り始めるも──手の指とつま先が掛かるのがやっとなほど薄い突出に、想像以上に体力を消耗させ、思うように登り進めることができずにいた。

 それでも、誰一人弱音を吐かず、苦悶の表情を浮かべながら必死に登り続ける生徒たち。

 そうして半分ほど登り進めた所で太陽も落ち、辺りが徐々に昏くなると、手元が見えなくなっていく。

「このままじゃ、頂上まで……」

 フェンサーが弱弱しい言葉を吐くと、「みんなー! ここに洞窟がある!」とメルのはつらつとした声がそれを掻き消した。

 崖の表面が抉り取られたように作られた洞窟。その中には、焚火と数種類の果実や蜜花が不自然に整列していた。

「俺等がここまでしか登って来られへんことは、想定済みってわけやな……」

 ティグリスは苦笑いを浮かべる。

「だとしても、四の五の言ってらんねぇぜ」

 とフェロズが我先に食料に手をつけると、「ちょっと、ずるい! 私はこれ!」とメルが続き──皆、貪りつくように食べ始めた。

 用意された食料はどれも疲労回復の効果が強く、皆の体に溜まった疲れを取り除いていった。

「ソラちゃん体大丈夫? 明日も登れそう?」

 メルは蜜花を吸いながらそう聞くと、ソラは緩慢と頷く。

「それよりも、真面目君の指」

 皆、ソラの独特の呼称に戸惑うも、視線が向いた先にいたフェンサーのことを指していることを瞬時に理解した。

 到底自分のことを言われているとも思わず、食事に夢中であったフェンサーは、視線を感じ徐に顔を上げた。

「え……、あ」

 それに気づいたフェンサーは、咄嗟に持っていた食べ物を手放し、隠す様に手を後ろにやる。

「フェンサー君、ちゃんと見せて!」

 それを見たメルの表情からはふと笑顔が消え、子を叱りつけるような叱声を洞窟内に響かせた。

 そうして観念した様に出した手は、内出血で滲み、随所に痛々しい傷を帯びていた。

 他の男子生徒に比べ手が小さく、握力も少なかったものの、身長は頭一つ抜けていたフェンサーは、無意識のうちに耐えうる以上の負荷がかかり続けていた。

「……大丈夫。栄養価が高い食料もこんなに食べたんだ、きっと明日には治ってるはずだよ」

「だといいけど……」

 いつも通りの冷たく突き放すようなソラの声が、洞窟内に響く。

「誰かさんみたいに滝つぼに落ちたら、もう誰も助けてやれねぇぜ」

 とフェロズは嫌味に満ちた表情でレオンを一瞥する。

 しかしフェンサーを一点に見つめていたレオンは反応する間もなく、太陽のような笑みを浮かべ、ぽんとフェンサーの肩に手を乗せた。

「大丈夫! 何かあったら、俺が背負ってでも頂上に連れてってやる!」

「レオン……」

「そうそう、辛いときは頼っていいんだよ。皆で力合わせて一緒に登り切ろっ!」

 次にメルの手が逆側の肩に乗る。

「みんな……」

 そのとき、フェンサー頬から流れた一滴の滴は、焚火の炎に照らされ、ひらりと儚く輝いた。


 同刻。

 ヴォルクスは頂上の崖の淵に立ち、星々が爛漫と咲く花々のように散りばめられた夜空を眺めていると、杖をついた一人の老婆が隣に並び立った。

「ここからだと、よく見えるじゃろ」

「えぇ」

「しかし大丈夫なのかい。いきなり崖を登らせて。皆ちゃんと無事で登ってくるんじゃろうの……」

「大丈夫だと思います。多分……」

「なんじゃその曖昧な返事は! これからを担う若者に何かあったら、オウルが許しても、この私が許さないよ!」

「……まぁ、まぁ。落ち着いてください。どちらにせよ、今の彼らの身体能力からして、明日がリミットです。それまでに登って来なければ助けに行きますよ」

 何かを願うように遥か遠くを見つめるその瞳には、雲一つ覆われていない満月がくっきりと映し出されていた。


 翌日。

 日の出とともに絶壁への挑戦が始まった。

 頂上に近づくにつれ、崖の突出は更に薄く、数も少なくなっていったものの、皆徐々にコツを掴み始めると、昨日よりもスムーズに登り進めていった。

 ただ一人を除いては。

「相変わらず遅ぇなぁ。もう置いて先行こうぜ」

「駄目! 昨日皆で一緒に登り切ろうって約束したんだから」

 不満をまき散らすフェロズをメルが諌める。

「フェンサー、大丈夫⁉」

 レオンは下を向き、体五つ分程離れたフェンサーに呼び掛ける。同時に目に入った遥か真下にある地上を見て、思わず肝も縮ませる。

「う、うん、何とか……」

 と次の突出に指を掛けたその刹那。

「うわッ……!」

 悲鳴とともに掴んだ突出が欠け──バランスを崩したフェンサーの体は重力のまま滝つぼへ真っ逆さまに急落した。

「フェンサーッ!」

 直後、レオンは一瞬の迷いもなく自ら崖に掛かっていた指を放し、落ちていくフェンサーに向かい頭から急降下し──左手を口元に当て、目一杯手を伸ばした。

「手をッ!」

 二度、三度、と互いの手が空中ですれ違い、四度目で掴み合う。そして獣毛に包まれた左前足の爪を全力で崖に押し付け、落下速度を殺そうと試みる。

 が、崖と爪が擦れて起こる尖った音が鳴るばかりで、一向に速度が落ちない。

(無理だッ! 爪が食い込まねぇ────!)

「レオン君、放すんだっ」

 猛烈な速さで滝つぼとの距離が近づいていき、額に浮かんだ珠の汗が、額から剥がれ宙を舞う。

「嫌だ! 絶対に諦めねぇッ────!」

 苦悶の表情を浮かべたレオンがそう叫んだそのとき──突如首掛けていた団栗のネックレスが薄っすらと光り出し、自分の意思を持ったかのようにふわりと宙を舞う。

「……⁉」

 先端を繋いでいた括り目がふっと解け、左手の甲に触れるようして当たる。

 途端、左前足の爪が瞬間的に恐竜の爪のような剛健なものへ肥大化し──「ガ、ギィィィィィィィィィン──」崖が抉れていく鈍い音とともに五本の爪全てが崖の中に食い込み、徐々に落下速度が遅くなり、やがて二人の体は静止した。

「ッァ、ハァ、ハァ……」

(なんだ、今の……)

 摩訶不思議な現象にただただ茫然としていたのも束の間、爪は徐々に元の大きさに戻っていき、やがてマスクが消えた。

 再び崖へと戻ったフェンサーは、顔を俯かせ、己の不甲斐なさに目に涙を浮かばせる。

「……ほ、ほんとうに、何てお礼すればいいか……」

「……気にすんなッ。 このくらい、いいってことよ!」

 いつもの太陽のように温かい笑みを見た瞬間、フェンサーの目に浮かんでいた涙は、目頭から一気に溢れ出した。

「皆は先に行ってて────!」

 レオンは遥か上にいる皆に腹の底から叫ぶ。

「でも……」

「レオンの言う通り先へ進むぞ。じゃなきゃ、俺等の体力も持たねぇ。それに」

 フェロズはメルに睨まれるのを恐れ言葉を止めた。やっとの思いで半分の距離を登ったのにも拘らず、わずか数秒でそのほとんどを失った二人。日数にしてほぼ半日分の距離が開いた二人に、もうこの訓練を突破できる可能性は極めて薄いという言葉を。

「わかった……。二人とも────、絶対に登ってきて────ッ!」

 事実、メルも薄々気づいていた。がここで自分が少しでも、弱音を吐くと、それが確実なものになってしまいそうな気がしたメルは、逡巡を振り切るように叫び、こだまする自分の声を背に再び登り始めた。

 遥か下でまた登り始める二人。それを目にしたティグリスの頭の中では、レオンの即断の行動が頭に引っ掛かり、理解に苦しむ自分に何故か腹を立てていた。

(なんであんなことできんねん……)


 レオンはフェンサーを補助するように、後ろにつく形で再び登り始めた。

 その道中、レオンは頭の中で団栗のネックレスが起こした不可解な現象について考えていた。

 そもそもあれは亡くなった両親から預かったお守りとして、物心ついたときから肩身離さず首から下げていた。が、先程のようなことは一度も起ったことがなかった。肝心なネックレスもどこかへ飛んで行ってしまったため、確認のしようもなかった。

 フェンサーの登る速さは、お世辞にも速いといえるものではなかった。それは同時に、昨日の蓄積した疲労や指の痛みが、大いに影響していることを意味していた。

 だが命を助けてもらったレオンの前で弱音など吐けるわけもなく、風前の灯火のように揺れる心の中の灯火を保ちながら、必死に崖を登り続けた。

 がしかし。

「ごめん、レオン君……、もう駄目だっ……」

 何とか急落する前の場所まで戻って来た頃だった。

 針に刺されたように痛む指と、このままでは確実に頂上まで辿り着くことができないと悟った心から、湧き出るように生まれる謝罪の念が混ざった心身の痛みに、耐えることができなかった灯は静かに消えた。

「先に行ってくれ。君一人なら、日没までには頂上に辿り着けるはずだっ……」

「……何言ってるんだよっ、絶対に置いてなんていけない」

 苦渋の表情を浮かべるレオンを、顔を出し始めた夕日が照らす。

「行くんだ……、僕みたいな奴のために道連れになることなんてない……。本当に、こんな、僕なんて……」

 崖を掴む手が言葉とともに震え、頬を濡らす。

 今度の涙は、悔しいほどに湧き出る屈辱が源であった。

 フェンサーの相棒リクスはウシ科に分類され、同科には恵まれた体格を持つ力騎士団の重水牛(バイソン)族や、風を操る能力を持ち、速騎士団の現団長、副団長を務める巻角牛(ブラックバック)族や麞(ガゼル)族がいた。そんな中、突出した能力がなかった長角牛(オリックス)族は、ウシ科の中でも劣等族としての扱いを受けてきた。そして、代々『支』に選別されてきたこともあり、自分もそう選別されるであろうと思い込んでいた。

「そもそも、全に振り分けられたことが間違ってたんだ……。これまで通り、『支』でよかったのに……。僕みたいに非力で何の取り柄もない奴が、皆と一緒に戦えるわけないんだ‼」

 苛立ちを露に崖の突出を握る指に力を入れようとするも、もうそんな力も残されていない。

「それは違うッ! これまでがそうだったから、これからもそうだって。そんな決めつけ方、絶対に間違ってる!」

「……君は、立派な父親の遺伝子を受け継いでいるから、戦闘力が高い相棒がいるから、そんなことが言えるんだッ!」

 嫉妬心が言語化したような言葉が勢いよく漏れだす度、フェンサーは自分の心が深く抉れていくのがわかった。

「……確かにそうかもしれない」

「……」

 その想定外の言葉に、フェンサーの心の中の黒く淀んだものがすーっと引いていく。

「だけど、父さんも、レオーネも、最初から強かったわけじゃなかったと思う。現に今の俺たちだって、まだまだ父さんたちに遠く及ばない。きっと、強くなるために血が滲むような努力し続けていたと思う。生まれ持った才能とか体格とか、努力ではどうしようもできないこともある。だけど、皆、何かしら自分にしかない才能を持って生まれる。そしてそれに、優劣なんてない」

 レオンは訴えかけるように、俯いたフェンサーを見る。

「フェンサーにも自分にしかないものがあるはずだ。そして、それはまだちっぽけなものかもしれないけど、その自分だけの何かを伸ばす努力を続ければ、きっと立派なものになる。学長はフェンサーの中にあるそれを見越して、『全』に選別したんだ」

 その一言一句全てがフェンサーの心の灯に集まり、再び火が灯る。そうして再び心を持ち直したフェンサーだったが、既に崩壊寸前だった体が突然再起することはなかった。

「……くっ」

 悔しそうに喉の奥で声を鳴らすと、隣まで上がって来たレオンはその手を掴み、自分の肩にかける。

「……こんなところで絶対に終わらせねぇ。何があっても、俺が頂上まで連れていく。努力を続けることが一番大切だということを証明するためにも、それを自分の中で信じ続けるためにも」

 そう強かに言い放ったレオンは、目に闘志を宿し、頂上を捉える。

「先生、ごめんっ」

 そう呟きながら学長特製マスクの結び目を千切り、滝つぼへ投げ捨てると、自分と同じほどの体重があるフェンサーを背負い黙々と崖を登り続けた。

「くっ……」

 倍増した負担が指先にかかる度、腕全体が疲労で震え、苦痛で顔が歪む。

(おい、本当にこのまま行くつもりか……?)

「……ッハァ、ハァ、当たり前だっ……!」

 レオンは必死に登り続けた。

 その無謀とも言える行動の原動力となっていたのは、他でもない『仲間を想う気持ち』であった。それは、誰かから教えてもらったことでもなければ、意識的に生み出されたものでもなく、源泉のごとく体の内側から溢れ、常にレオンの体の中を血液と共に駆け巡っていたものだった。

 そうして何とか四分の三付近まで登り進めた頃には夕日は完全に沈み──それでも止まることを知らないレオンは、薄っすらと照らされた月明かりと手の触感でだけで突出を見つけ登り続けていた。

「駄目だレオン……。もう僕を降ろしてくれ……」

「大丈夫……。もうすぐだっ……」

 レオンの体は既に限界を超え、指は全て青紫色に染まり、痛覚も一部麻痺し、意識も徐々に揺らぎ始め……。

(おい、レオン! しっかりしろっ!)

「……だいじ……ょうぶ。あと……、もうすこ……」

 地獄から這い上がる死者のように。ゆっくりと、一手ずつ、突出に手を掛け上がっていく。ただ、頂上だけを見つめて。

 そして。

 見事な執念で登り詰めたレオンは、崖の淵に最後の一手を掛けた。

 だが、その刹那。

 その手は崖の表面から、ひらりと剝がれ、フェンサーを背負った体は後ろへ倒れる。

「えっ────」

 浮力と感じるとともにフェンサーの声が漏れ出し。

「……。」

 朦朧とする意識の中で、レオンは泰然と死を悟り。

 パンッ!

 そのとき、肌が勢いよく密接する音が鳴り、それは意識の中で薄っすらと響くと、次いで聞き覚えのある声と同時に、体が引き上げられる感覚を感じた。

「ほんまに、意味わからんわっ……!」

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