外伝Ⅱ 妖花~その44~
床に崩れ落ちたロートン二世はぴくりとも動かなくなった。血溜まりだけがまるで生き物ように広がっていった。呆然とそれを眺めていたワグナスは、ふと人の気配を感じ我に返った。ロートン二世が描いた絵画が収納されている棚の影から、皇帝家の家宰であるレソーンがすっと姿を見せた。
「家宰……」
ワグナスは手から落ちそうになった短刀を握りなおした。事態の重大さを考えれば、ここで家宰の口を封じるべきだろう。
「宰相、そのまま」
レソーンの方が落ち着き払っていた。彼は目の前でロートン二世が死んでいるのにも関わらず驚く素振りもなく、助けを呼ぼうともしなかった。ただ興味深げに死者と生者を眺めていた。
「まずはお手のものを捨てなさい。ここで老躯の死体が増えたとしても、何も始まりませんぞ」
ワグナスはレソーンが苦手であった。というよりも、家宰の身でありながら皇帝の寵愛をいいことに、政治的な話に口を挟んでくることがしばしばあったからである。しかし、今のレソーンの言動は、まるでワグナスに味方しようとしているかのようであった。
「家宰、これは……」
「言わずとも分かっております。宰相のお気持ち、このレソーンはよく分かっております。何しろ皇帝の近くにずっとおりましたからな」
さてさてどうしたものか、とレソーンは腕を組んだ。
「家宰、あなたは何を考えておられる」
「我が考えているのは帝国と帝室の反映でございますよ。我はロートン二世個人の付き人ではなく、ガイラス王朝の家宰であります」
そういうことでありますよ、とレソーンは言った。それでワグナスは得心した。この家宰にとって皇帝というのは抽象物であり、具体的な個人ではないのである。要するに皇帝という器は誰でもいいのだ。
「今、帝国はロートン二世を失っても害はありませぬが、宰相を失うわけにはいきません。さて、この場をどう切り抜けるか……」
ここはレソーンの知恵に任せるしかなかった。ワグナスは黙って短刀を机に置いた。
「ふむ……陛下の寵姫をひとり、犠牲にするしかありませんな。陛下の寵愛から遠ざかった姫君が、悲しみと嫉妬のあまりに陛下を刺殺……そんなところですかな」
「しかし家宰、そう上手くいくものか……」
「蛇の道は蛇ですぞ。そういうことは家宰にお任せください。宰相は閣僚達を集めて今の筋書きのもとで陛下の死をご公表ください」
今は一刻も大切ですぞ、とレソーンが促した。ワグナスは彼を信じて従うしかなかった。
ワグナスはすぐさま閣僚を招集し、ロートン二世の死を切り出した。誰もが信じられぬと言った表情であったが、嘆き悲しみ涙するものはいなかった。ロートン二世が閣僚からどのように評価されていたか、このことだけでも十分に窺い知れた。
「寵姫に刺されたと言うことであるが、一体誰が?」
司法卿ハーマンスは当然のことを切り出した。
「それは家宰殿が……」
と言い掛けた時、衛兵を引き連れたレソーンが姿を見せた。
「寵姫であられたマリアハウゼン様が自室で毒を仰いでおられました。傍らにはこれが……」
レソーンは血まみれの短刀を差し出した。それはワグナスがロートン二世を刺したものであった。
「マリアハウゼン様は最近、陛下の寵愛薄く、嘆かれておりましたな」
レソーンはさも残念そうに呟いた。皇帝の身辺に侍る彼の言を疑う者など誰もいなかった。
「家宰殿、ご苦労であった。陛下のご遺体の処理、お任せしてよろしいか?」
「承知しました」
ワグナスは随分と自分を取り戻しつつあった。レソーンとの芝居を恙無く遂行することができた。
「陛下の死は表向き病死とする。問題は誰が皇位を継がれるということだ」
ワグナスに言われるまで閣僚達はそのことを失念していた。ロートン二世には四人の男子がいるが、皇太子を決めていなかった。
「皇子の方々を早急に集めましょう。一日もあれば駆けつけて来られるでしょう」
閣僚達はワグナスの意見に依存はなかった。二人の皇子は現在皇宮におり、他の二人は帝都近郊にいる。ワグナスは彼らに使者を派遣した。
実はこの時、ワグナスが発した使者よりも早く帝都を出た者がいた。門兵であるマカーレン・ベリックハイムであった。レオンナルドの仕えるネブラと通じでいた彼は、いち早くロートン二世の死を知り、帝都を脱出していた。
翌日、皇子達はワグナスからの報せを受けて皇宮に駆けつけてきた。彼らは一様に悲嘆し、形ばかりの涙を流したが、率先して帝位に着こうと名乗り出る者はいなかった。ワグナスからすれば彼らの心情など容易に想像ついた。
皇子達からすれば帝位は喉から手が出るほど欲しい。しかし、皇帝というのは美食を喰らって美酒に酔い、美女を侍らせるものだと思っている彼らかすれば、飢饉等で帝国が震撼し、為政者の贅沢が許されない現状で皇帝になるというのは気が進まないのだろう。
『血統で受け継がれる地位など、所詮その程度のことか……』
これまでの帝国の歴史の中で名君と言われる人物は確かにいた。しかし、それが非常に稀であることは、まさに今証明されていた。
「兎も角もどなたかが皇帝になっていただかなければ、帝国を治めるものがおらず、臣民が困惑いたします」
ワグナスは、皇子達を前にしてはっきりと言い放った。彼らの方が困惑の表情を浮かべた。
順当に行けば、長兄であるメルビンが帝位に着くべきだろう。だが、絵に描いたような凡庸な男児で、取り柄を見出すことが非常に困難であった。他の皇子も似たようなものであり、ワグナスとしては誰が皇帝になっても一緒だと思っていた。
「一層のこと、宰相が帝位に着けばよろしかろう」
メルビンがそう言った。本気なのか冗談なのか分からなかったが、ワグナスは不快感を隠さなかった。
「冗談でもそのようなことを仰らないほうがいいでしょう」
仮にワグナスが皇帝になれば、皇子達など生きていく術がなくなるであろう。ワグナスはそういい掛けて、言葉を飲み込んだ。
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