外伝Ⅱ 妖花~その43~
久しぶりにフィスと一夜を過ごしたワグナスは、すこぶる気分よく目覚めることができた。今一度、フィスの体を愛でようと手を伸ばしたが、隣に寝ているはずのフィスはいなかった。フィスは常にワグナスの愛撫によって目を覚ましていたので、先に目を覚まし、床から出ることなど今までにないことであった。
胸騒ぎを覚えて跳ね起きると、何も羽織らず部屋を出た。そこにフィスはいた。しかし、机に伏せっており微動だにしていなかった。
「フィス!」
駆け寄り体をゆすってみたが、反応はなかった。そして、彼女の口から鮮血が流れ出ているのを見つけた。
「馬鹿な……」
ワグナスは腰を抜かし、尻餅をついた。その衝撃で、机の上から瓶が転がり落ちた。瓶からは薄い紫色の液体がこぼれ出てきた。それが毒薬であることに間違いなかった。
「フィス……。どうして……」
考えるまでもなかった。昨晩のフィスの告白を思えば、ロートン二世に抱かれたことを苦に、自ら死を選んだのは明白であった。
「おお…おおおおお!」
ワグナスは嗚咽を漏らしながら、涙を流した。彼のこれまでの人生の中でこれほど涙を流したことはなかった。同時にワグナスの中で何かが壊れた。
そしてその日が多くの人々にとっての運命の日となった。
帝暦七二一年、雪花の月十四日。
様々な記録を辿っていくと、この日のワグナスは明らかにおかしかったという。瞳は完全に生気を失い、顔色は青白くなっていた。それでいて足取りはしっかりとしていたので、疲れていても流石は宰相閣下だ、と言うものもいれば、心労の中気丈に振舞うワグナスの姿を危険視する者もいた。
ただ、後者のほとんどは、ワグナスが倒れてしまう危険性を感じていただけで、大逆を犯すなど考えてもいなかった。
朝議の前に一度宰相府を訪れたワグナスは、下僚達と朝議に上るであろう案件について簡単に意見を交わした後、書類をまとめて宰相府を出た。この時のワグナスの様子をある下僚は、尋常ではなかったと証言し、また別の下僚は、ややお疲れの様子だがいつもどおりだったと証言している。
朝議に出席したワグナスは、滞りなく議題を進めていった。いつものように一刻ほどで朝議は終わり、散会となった。退室しようとするワグナスを司法卿のハーマンスが呼び止めた。内容は現在進行している各地の暴動に対する処罰規定について一言二言言葉を交わしただけであり、この時のワグナスの様子をハーマンスは後に述懐している。
『あの時の宰相閣下はどこか虚ろであった。それでも受け答えはしっかりしていたので、単に体調が悪いのだろうと思った程度であった』
ハーマンスと別れたワグナスは、宰相府に戻った。そこで書類を置いたワグナスは、行き先を告げずに宰相府を出た。
ワグナスの足は皇帝の私室へと向けられた。衛兵に取次ぎを頼むと、待たされることなく部屋に通された。ロートン二世は懲りもせず画布に向かっていた。部屋にはロートン二世しかおらず、裸婦画に彩色していた。
「陛下、言上したきことがございます」
「ふむ。申してみよ」
と言いながら、ロートン二世は筆を止めなかった。
「新離宮の建設再開をご命令されましたね。私の出征中に」
ロートン二世は少し筆を止め、やや嫌そうに顔をしかめた。
「そうであったな。工事が止まっていると聞いて、宰相との約束を忘れて再会を命じてしまった。許せ」
ロートン二世はワグナスから視線をはずした。許せと言いながらも、まるで反省している様子がなかった。再びワグナスが帝都から去れば、同じことを繰り返すだろう。ロートン二世に限らず、至尊の地位にいる者というのはそういうものであった。
「フィスが亡くなりました……」
ワグナスは不意を突くように言った。今度は目を大きく見開いたロートン二世は、確かめるようにワグナスを見た。
「誠か……。あの素晴らしき舞が見られぬというのは残念だな」
「何故亡くなったかは聞かれないのですね」
ロートン二世は言葉に詰まった。それまで跪いていたワグナスはすっと立ち上がった。
「私はすべて知っております。私に隠れてフィスとお会いになっておりましたな。フィスはそれを苦に自らの命を絶ったのです」
ワグナスはロートン二世に詰め寄った。ロートン二世の顔に怯えの色が見えた。
「許せ、宰相。悪意があったわけではない」
「そうでありましょう。あなた方はいつもそうだ。悪意がなく、許せと言えばすべて許されると思っている!飢えた民草が建造されている新離宮をどのように思っているか?いいように弄ばれたフィスがどのような思いで死んだか?お分かりになられないでしょう」
「ならば宰相、どうすればよいのか?」
ロートン二世の語気にわずかに怒りが含まれていた。彼はこのように他者から責められたことなどないのだろう。
「飢えてなくなった万の人々も、フィスも戻ってこないのです。その意味がお分かりにならないのであれば!」
ワグナスは懐から短刀を取り出し鞘から抜くと、躊躇わずロートン二世の首に突き刺した。鮮血がワグナスの視界を覆った。
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