外伝Ⅱ 妖花~その35~

 帝暦七二一年、豊実の月。恐れていた事態が発生した。収穫の季節が近づくにつれ、今年の大不作が明るみになり、帝国における食物の価格が十倍近くに跳ね上がったのだった。


 ワグナスはすぐさま手を打った。義倉を解放する一方で、商人達による食料品の買占めを禁止させた。これにより帝都の食料価格は落ち着いたが、地方ではそうはいかなかった。


 まず悲劇を襲ったのは帝国の最も北にあるレンストン領であった。レンストン領は後世では帝国を代表する穀倉地帯となるのだが、この当時はまだ未開発の土地であり、食料は南方から調達していた。レンストン領の場合は、食料価格が跳ね上がるだけではなく、手に入れることすらできなくなっていた。


 すっかりと食料が尽きてしまった領民達は半ば暴徒になって商人の屋敷に集まった。彼らは蔵を強引に開けさせたが、そこには米も小麦もなかった。商人は食料を隠したわけではなく、手に入らなかったのだ。


 暴徒達は続いて領主の館に殺到した。しかし、領主の所有している蔵にもろくな食料がなく、領主はやつれた頬で領民達に謝罪するだけだった。彼らが自分達の将来に絶望しながらも帝都からの支援を待つだけであった。だが、帝都ですら食料を確保するのが難しい状況にあるのに、地方への支援などできるはずもなく、この時から一週間後には数十人単位の餓死者を出すに至った。これを皮切りに各地で餓死者や栄養失調による病死者が続出していった。


 この飢饉により一ヶ月あまりで数万人の餓死者、病死者を出すのだが、帝国で唯一第三皇帝直轄地のみひとりの死者を出さなかった。オルトスは帝都で食料の価格が跳ね上がると知るや否や、義倉を解放して食料の安定供給に努めた。一方で商人達に布告を出した。


 『不当に食料の価格を吊り上げるのを禁止する!これを破った者は二度と帝国で商売できないようにしてやるから覚悟しておけ!』


 ここまではワグナスが取った処置と同じであった。異なる点があるとすれば、オルトスが備蓄していたのは食糧だけではなく、医薬品や毛布、建築資材など多岐に渡っていたことであった。このきめ細やかさが死者を出さずに済んだ要員となった。


 一方でオルトスはワグナスが取った処置について多少の危惧を抱いていた。


 『ワグナスが処置は飢饉時には適切な対応だ。しかし、それは地方の行政単位なら大丈夫だが、帝国全土となるとわけが違う』


 ワグナスの取った処置は帝都に限定されたものだった。確かに帝都では一時的に飢饉から免れた。


 『しかし、これで帝都に食料があると知れて地方から難民が押し寄せるだろう。そうなれば帝都はさらに恐慌状態になる』


 実際に難民はすでに出現している。第三皇帝直轄地にも少数ながら難民が押し寄せている。オルトスは可能な限りそれを受け入れているが、どこまで対応できるか不安ではあった。


 「所詮、ここは小さい。難民達もここの食料に限界があると判断するだろう。そうなれば帝都を目指していく。果たして対応できるだろうか」


 空腹に絶望した群衆が帝都へと群れを成して進む光景など想像するだけでぞっとした。


 「帝都の民衆を食べさせるだけでも大変でしょうに……」


 机に座るファランがややぐったりとしていた。彼女はパン屋の娘としての本領を発揮し、ここ数日義倉の小麦を使ってパンを焼き続けていた。随分と疲れている様子だが、それでも民衆のことを心配するのはファランの性根の優しさが現われていた。


 「義父上が心配だな。こちらに呼ぼうか?」


 「父のことなら大丈夫よ。父も兄もそこは上手く立ち回るから。でも、帝都の民衆だけでも食べさすのに大変なのに、難民となると……」


 「まず難しいだろう。だが、問題はそこから先だ。帝都に流入しようとする難民を武力で阻止する事態に発展しかねいないことだ」


 「まさか……そんな」


 「ワグナスがそこまでするとは思いたくないが……」


 そのような事態になれば民衆の心は帝室から離れてしまう。概ね好意的であったワグナスの政治も頓挫してしまうかもしれなかった。


 『失脚するだけならまだいいが……』


 事態が事態だけにワグナスが悪とされ、怒り狂った民衆や反対勢力に血祭りにあげられる可能性もあった。いくら皇帝からの寵愛があったとしても、民衆の支持を得られなければ帝国の政治はできない。これは帝国の歴史を紐解けば理解できる話であった。


 「ワグナスは間違いなく宰相の器だ。しかし、天災ばかりはどうにもならんのか……」


 ワグナスのためにもこれ以上被害が広がらないのを祈るだけであった。

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