外伝Ⅱ 妖花~その30~
帝暦七一九年日輪の月。オルトスは帝都に上っていた。皇帝直轄地の代官は年に一度帝都に上ることを義務付けられている。ワグナスが宰相となってから初めての帝都であり、直接の上司となってから初めての対面であった。
実はワグナスは宰相になってから皇帝直轄地管理局の局長を兼任するようになっていた。前任者がシドレ・ベイマンに対する監督不行き届きの咎で更迭されて局長の座が空位になり、適任者がいなかったのでやむなくワグナスが兼任することとなったのだった。
「よく来てくれた。私はこの日を待ちわびていたよ」
ワグナスは宰相府でオルトスを迎えた。宰相府などワグナスが宰相にならなければおそらく一生無縁で終わったであろう場所であった。
「宰相閣下におかれましてはご健勝のほどお喜び申しあげます……」
「よしてくれ、オルトス。そんな他人行儀な言い方。私と君の仲じゃないか」
「しかし……」
「ここには私と君しかいない。遠慮するな」
確かに広い部屋にはオルトスとワグナスしかいない。多少居心地が悪い空間であったが、昔と変わらぬワグナスの言い様にオルトスは相好を崩した。
「しばらく帝都にいないから堅苦しいのはどうも苦手になってしまった。助かるよ」
「私としては君に帝都に帰ってきてもらって直轄地管理局の局長にでもなって欲しいんだが、第三直轄地の民衆からお前を変えるなという嘆願が数多く寄せられていてな。迂闊に変えられん」
「それは代官冥利につきるというものだ」
「実績から考えれば、民衆達の嘆願も尤もなことだ。近年、ここまで直轄地の生産高をあげた代官はいないからな」
「それはどうも。だが、私はこの程度で精一杯だ。帝国全体のことはワグナスの双肩に掛かっているからな。頼んだぞ」
「おいおい。いずれは私の片腕になってもらうつもりなんだからな。地方の代官で満足してもらっては困る」
それは過大評価だと思ったが、親友の評価としてありがたく受け取っておくことにした。
「正直なことを言えば、今すぐにでも君には帝都に帰ってきて欲しいんだ。ベイマン家を排除したが、私の味方というべき人物は少ない。いや、この皇宮には皆無と言ってもいいかもしれない」
ワグナスにしては弱気な発言であった。
「そんなことはないだろう」
「確かに私を慕う者もいれば、追従してくる者もいる。しかし、彼らに心から気を許しているわけではないし、何よりも能力が足りない」
「そういえばウミナスはどうした?彼からの便りが絶って久しいんだが、彼なら君も片腕として満足するんじゃないのか?」
「彼は亡くなった……」
ワグナスは伏目がちに応えた。オルトスはすぐに言葉が見つからなかった。
「いつのことだ?ベイマン家に襲われたことは聞いていたが、その時は君が助けたんじゃないのか?」
「あの時はね。しかし、私が国務卿になってからすぐにベイマン家の残党にやられたようだ……」
ワグナスは視線を合わそうとしなかった。まるで後ろめたいことを隠しているような感じがしてならなかった。
「下手人は?」
ワグナスは首を振った。何かしら不都合が生じワグナス自身が手を下した……などとは思いたくないが、そういう疑惑を抱いてしまう余地がワグナスの言動には見て取れた。だがそれはオルトスの想像の範疇を出ないことなので、追求することはしなかった。
「ともあれ、堅苦しい話はこれまでとしよう。今夜はうちに寄ってくれ。義父が主催する宴席があるんだ。私も参加せばならないから少々付き合ってくれ」
ワグナスは話を打ち切るようにして立ち上がった。
ビルバネス邸で行われた宴席は、贅を極めたものであった。代官として地方に赴任して二年余り。オルトスが忘れていた光景であった。集まった人の数に息が詰まりそうになり、並べられた美酒美食の数々は、その味を思い出すこともできなかった。
宰相となったワグナスは、ここでも中心人物であった。彼の周囲にはあっという間に人だかりができ、彼の隣には妻であるアフィリアがいて微笑んでいた。オルトスは部屋の隅でその姿を傍観するだけであった。
「あら、久しぶりじゃない。オルトス」
所在無げにしていると、懐かしい人に声をかけられた。ランスパーク男爵夫人である。
「お久しぶりです、男爵夫人」
「上京するなら言ってくれればいいのに」
「すみません。公用なので終わればすぐに帰るつもりだったんですが、この様です」
「我らが宰相閣下はよほど貴方のことが気に入っているのね」
「それはそうと手紙ありがとうございました。今後もぜひに」
勿論よ、と応じる男爵夫人はまるで変わりがなかった。寧ろ若さと妖艶さが増したように思えた。
しばらく男爵夫人と談笑していると、突然照明が暗くなった。何事かと思っていると、よく通る男の声が響いた。
「皆様、これよりしばし歌舞音曲をお楽しみください。今、帝都で話題のオクニス一座です」
男が紹介すると正面の舞台に楽器を手にした男女が数人現われ、美しい音楽を奏で始めた。これまでオルトスが聞いたことのない美しい音色であった。
「帝都で一番話題の音曲一座よ。それを出演させるなんて流石ビルバネス家と宰相閣下ね」
男爵夫人がそう解説してくれた。オルトスが感心して耳を傾けていると、ぱっと舞台中央に一人の女性が躍り出た。露出度の高い透けた衣装をまとった女性は、眩しいほどに美しかった。世の中に美しいといわれる女性のあらゆる要素を集めて固めたような完璧な美貌であった。ただ、あまりの整った容姿であるがために、オルトスとしては鑑賞物以上の感情を抱くことはなかった。
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