外伝Ⅱ 妖花~その18~
帝暦七一七年朱夏の月、オルトスとファランは結婚式を挙げた。帝国の官吏としてはささやかであったが、知己を招いての和やかな式典となった。その中には当然ながらワグナスの姿もあった。オルトスは、彼を招くことを一瞬逡巡したが、ファランが笑って嗜めた。
『私のことは気にしないでください。もう何も思っていませんから、あなたの親友を呼んで下さいな』
そういう優しさを見せるファランを妻に選んでよかったとオルトスは改めて思った。
「おめでとう、ご両人。私の知っている人同士が一緒になるというのは嬉しい限りだな」
ワグナスはそう祝福してくれた。ワグナスはきっとファランがかつて恋心を抱いたことも、それに対するオルトスの気持ちも分かっていないだろう。そのせいではないだろうが、ワグナスは挨拶もそこそこに同僚官吏達の輪の方へと向かった。
「淡白なものね」
完全に吹っ切れた様子のファランも実に素っ気無かった。
「お二人さん、おめでとう」
ワグナスと入れ替わるようにして挨拶に来てくれたのはランスパーク男爵夫人であった。この式典は、男爵夫人の好意により彼女の邸宅を借りて行っていた。
「ありがとうございます」
「まったく……私の気に入った男達って本当にすぐに私の下から去っていくから寂しいわ」
「男爵夫人の周りにはまだまだお気に入りの男達がおられるでしょう」
それもそうね、と男爵夫人は口に手を当てて笑った。
「男爵夫人、ひとつお願いがあるんです」
「あら?何かしら?」
「一月に一度程度でよいので、帝都での様子を私に知らせて欲しいのです。これは私の部下であるバナジール・ウミナスにも頼んでいるのですが、彼はワグナスの信奉者ですから、内容に偏りが出てくるかもしれませんので……」
「は~ん。なるほどね……」
男爵夫人は遠いところに居るワグナスをチラッと見た。男爵夫人はオルトスの意図するところを完全に見抜いてくれたらしい。
『私がいなくなるとワグナスはビルバネス家と組んでベイマン一派と抗争をはじめる』
オルトスはそう睨んでいた。
ベイマン家一派の謀略によってオルトスは帝都を離れることになった、とワグナスは考えている。しかも、それが抗争の始まりと考えている様子なので、ワグナスの方も何かしらの行動に出るのは目に見えていた。
『さらに言えば、ワグナスは私という抑止力を失う……』
権力への飽くなき希求を続けるワグナスに対してオルトスはこれまで幾度となくやんわりと苦言を呈してきた。それがワグナスの歯止めになっていたという自信があるわけではないが、少なくとも彼に苦言を呈する者はいなくなってしまう。謂わばワグナスを拘束している枷が外されたことになる。
「何を仕出かすか分からないってわけね、分かったわ」
男爵夫人は快諾してくれた。これでオルトスは安心して任地に赴けた。
オルトスの任地である第三皇帝直轄地は、帝都より北方に位置する。それほど広大な領地ではないが、良質な木材が取れる森林があり、近隣と比べても裕福であった。
『なるほど。こんな小さな領地でも収益は他の大領よりも多いとはな』
着任早々、オルトスは前任者が残した資料に目を通した。皇帝直轄地は穀倉地帯だけではなく金山、銀山などを有しており、諸侯が治めている領地よりも収入面は高かった。そのうえ租税は領主が搾取することなくすべて皇帝に直納されるため、他の領地に比べて税率は低く、領地経営としての効率は極めて高かった。
「落ち着かれましたら、ぜひ領内を一回りしてくださいませ」
資料を読む傍らでオルトスに進言したのは、ダンクルという現地採用の官吏で、副代官のような立場にある。年上であろうが、オルトスのことを若造と侮蔑することもなく、逆に阿諛追従することもなく、淡々と前任からの引継ぎ事務を遂行していた。
「そうだな。数字で理解しても、実際に見聞しなければ分からないこともあるからな」
「それと林業組合の代表がご挨拶したいと……」
「会おう」
ダンクルは頷いて退出すると、すぐに初老の男を連れて戻ってきた。
「この度は代官の就任おめでようございます……」
男は丁寧に挨拶をしながらも、オルトスのことを値踏みするような視線を向けてきている。
「そして、これはほんの気持ちでございます。今後とも我らをご贔屓に……」
と言いながら男は風呂敷包みを差し出した。
『賄賂か』
オルトスは嘆息した。着任する前、帝都に先輩官吏に耳打ちされていたことを思い出した。
『豪農や富商が賄賂を持ってきた時は素直に受け取るように。もし受け取らねば、後の者が困るからな』
要するにオルトスが拒否した場合、オルトスの後任の者が賄賂を受け取りづらくなるということだろう。
「お気持ち、ありがたく頂戴します」
オルトスは素直に受け取ることにした。男はほっとしたように頭を下げて退出していった。
男が去るとオルトスは包みを開けた。木箱があり、その中には親指大の金塊が並べられていた。ぱっと見て百万帝国ギニーはあるだろうか。
『これは相当なものだ。誰しもが代官になりたいわけだ』
オルトスは木箱の蓋を閉じると、ダンクルに差し出した。
「これは公庫に納めてくれ。一部現金化してさしあたっては飢饉に備えて保存のできる食料と毛布や衣類などを買い集めておいてくれ。残りは開墾事業などの費用として使いたいが、後のこととしよう。今後も私宛の賄賂はこのように処理してくれ」
帝国史上、賄賂を公庫に納めたのはオルトスが初めてであっただろうし、後にも現われなかったと言ってもいい。オルトスはその資金を機密費とし、飢饉対策や開墾政策のために使った。このことが幸いし、数年後、帝国が大飢饉に見舞われ多くの餓死者が出た時、第三皇帝直轄地のみひとりの餓死者も出さなかったのだが、これは後に詳細に触れる。
「承知しました」
この時になって初めてダンクルの表情が少しばかり変わった。
「アーゲイト様は変わったお方ですね」
その日の政務を終えたダンクルは徐にそう言った。このようにダンクルの方から話しかけてきたのは初めてであった。
「そうかね?」
「ええ。賄賂を公庫に納める方なんて聞いたことがありません」
ダンクルは穏やかな顔をしていた。しかも饒舌であった。
「そうだろうな」
オルトス自身も聞いたことはない。
「賄賂を受け取らないという代官もいると聞きました。政治に清廉さを求めてのことだと思いますが、アーゲイト様もそのようにお考えで?」
「私は聖人君主ではない。単なる官吏だ。賄賂が慣習として行われているのならそれを無理に取りやめる必要はあるまい。やめてしまえば、賄賂を贈るほうも困惑してしまうからな。ただ私自身は金銭に対する欲がないだけだ。いただいている給料だけで生活ができる」
左様でございますか、とダンクルは満足そうに頷いた。ダンクルはオルトスのことを頼もしい代官であると認めたのだろう。オルトスもダンクルのことを信用できる部下だと思った。
『彼がいれば私の思うような行政ができる』
オルトスは帝都の雑念を忘れ、しばらくは領内経営に心血を注ぐことにした。
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