外伝Ⅱ 妖花~その17~
全身にだるさを感じながらオルトスは下宿先に帰ってきた。
「ただ今帰りました」
屋内はとても静かで人の気配がまるで感じられなかった。すでにワグナスはこの下宿先を出ており、ビルバネス家に寄宿している。オルトスもあとしばらくで出なければならない。
『寂しくなるだろう』
わずか二人の下宿人であったが、ネルパンの家は賑やかであった。特にファランは活き活きしており、父であるネルパンも、
『以前から騒がしい女であったが、より騒がしくなった』
と嬉しそうに感想を漏らしていた。しかしそれはワグナスがいたからであろう。
『ワグナスも罪な奴だ』
ファランの心を連れ去ったワグナスのことを恨むつもりはない。それがお門違いであるということは重々承知しているし、オルトスもこの下宿を去る以上、ファランのことは忘れなければならなかった。
階段を上ると、上からそのファランが下りてきた。
「ファラン……」
二階には下宿用の部屋しかない。オルトスの部屋は鍵をかけているので、ワグナスのいた部屋に居たのだろうか。
「ああ、お帰りなさい。食事の用意しますね」
ファランは瞼に涙を溜めていた。
「ファラン。君はワグナスのことが好きだったのかい?」
ファランの足が止まった。振り返ってオルトスを見上げる顔には涙が流れていた。
「残酷なことを聞くんですね……」
「すまない……」
「そうです。私はワグナスさんのことが好きでした。身分違いの恋だと分かっていましたけど、人が好きになるのは止められません」
所詮は届かない恋でした、とファランはその場にしゃがみ込んで泣きじゃくった。オルトスは慌てて階段を下り、ファランの肩を抱いた。
「ファラン、無体なことを言った。許してくれ……私は……」
ファランがオルトスの胸に顔を埋めた。言葉に詰まったオルトスはそのままファランを抱きしめた。ファランはそのまましばらく声を上げて泣き続けた。
どれほどファランは泣いただろうか。オルトスが気がついた時にはファランはすでに泣き止んでいた。それでも彼女はオルトスに身をもたれさせ、抱擁されるままであった。オルトスが意を決する番であった。
「ファラン。こういう状況で言うのもなんだが、私と結婚してくれないか?」
オルトスはファランを強く抱きしめた。唐突な言葉にも力強い抱擁にもファランは拒否反応を示さなかった。
「別に同情してのことでもないし、誰でもいいわけでもない。私はずっと君のことが好きだった。しかし、君がワグナスのことが好きだと分かっていたので何も言えずにいた。今がよい機会と言えば卑怯かもしれないが、それでも言いたい。私は君が好きだ。結婚して欲しい」
ファランが頷くのが分かった。ありがとう、とオルトスは囁くように言った。
しばらくしてネルパンが帰ってきたので、オルトスはファランと並んで結婚させて欲しいと申し出た。あまりにも突然のことにネルパンは目を白黒させたが、すぐに相好を崩した。
「そうかそうか。いや、めでたい話だ。嫁の貰い手などないと思っていたけど、まさか相手が帝国の官吏様だとは……。ありがたい話だ」
ネルパンを目に涙を溜めていた。
「ですが、間もなく地方に赴任します。ネルパン殿……いや義父上には寂しい思いをさせることになりそうです」
義父上なんて照れるな、とネルパンは頭をかいた。
「俺の寂しさなんていいさ。もうすぐ修行に出ている息子も帰ってくるからな。ファラン、酒を持ってきてくれ。ささやかながら三人で祝杯としよう」
はい、とファランは嬉しそうに席を立った。娘が去るのを見送ると、ネルパンは居住いを正した。
「アーゲイト様。娘をよろしくお願いします。蓮っ葉な娘で、官吏様の妻に相応しいか分かりませんが、しっかりと面倒を見てやってください」
「こちらこそ」
「正直申しまして、相手がアーゲイト様でよかったと思います。娘はその……ザーレンツ様に執心だったようで……」
父親の目は節穴ではないらしい。娘のことをしっかりと見ていたようだ。
「しかし失礼な話、ザーレンツ様はその……お仕事に対してぎらぎらとしたところがあって、娘が幸せになるとは思えなかったのです」
「ワグナスはワグナスですよ。彼には彼の道があります」
思えばこの時、オルトスはワグナスと決別したと言ってもよかった。勿論、オルトスはワグナスを友だと思っているし、そのことは生涯変わることはなかったが、進むべき道はここできっぱりと分かれたのであった。
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