外伝Ⅱ 妖花~その14~

 オルトスは真っ直ぐに下宿先のネルパンのパン屋に戻った。ただ今戻りました、と告げて裏口から入ると、


 「おかえりなさい!」


 パンを焼いている厨房からファランの明るい声が飛んできた。


 「なんだ……アーゲイト様か」


 顔を小麦粉で汚しているファランが顔を覗かせたかと思うと、オルトスの顔を見てすぐに引っ込めた。


 「悪かったね、私で」


 オルトスはからかうように厨房を覗いた。親父のネルパンをおらず、ファラン一人であった。


 「いえいえ、そんなことないですよ。お帰りなさいませ、アーゲイト様」


 ファランはにっと笑った。それでいて寂しそうな影を落としているのをオルトスは見逃さなかった。


 『ファランはワグナスのことを好いている』


 以前より察していたことではあったが、ファランの表情を見ていると改めてそのことを確信させられた。オルトスの胸がちくっと痛んだ。オルトスは密かにファランのことを好いていた。


 「夕食にしますね」


 ファランが厨房に引っ込んだ。オルトスは、お願いしますとだけ言って着替えるために自室に向かった。


 厨房に戻ると食卓にはパンとスープが並んでいた。


 「ちょうどよかった。魚も焼きあがりましたよ」


 ファランが焼き魚がのった皿を食卓に置いた。夕食は一人分しかなかった。


 「ありがとう。親父さんは?ファランは食べないのかい?」


 「父は組合の会合です。私は……ザーレンツ様は帰ってきますかね?」


 ファランは探る様にオルトスを見た。


 「今日もどこぞかの晩餐会だよ」


 「じゃあ、私も食べます」


 ファランはワグナスと一緒に食べたかったようだ。結果としてファランと二人きりで食事を共にすることができたが、オルトスの心境は複雑であった。


 手早く準備をしたファランは、自分の夕食を食卓に並べ食べ始めた。


 「最近、ザーレンツ様は全然うちで食事を取られないんですよ」


 ファランはパンをちぎりながらやや恨めしげに言った。


 「あいつは忙しいからな。今や帝国の新星だからな」


 「別にお仕事で忙しいわけじゃないんでしょう?貴族様達と日々楽しい舞踏会に晩餐会。美味しい食事に美女……。貴族のお嬢様ってやっぱり美人ばかりなんですか?」


 「そうとも限らないけど……まぁ美人は多いよね」


 そうですよね、とファランがあからさまに肩を落とした。オルトスの胸が苦しくなった。


 オルトスの心境は複雑であった。ファランのことを好いてはいたが、ファランがワグナスのことを好いているのならば、彼と添い遂げるべきだと考えていた。しかし、ワグナスがファランのことをどう思っているかが問題であった。ワグナスがファランのことを憎からず思っている素振りはなかった。


 『ワグナスがファランを娶ることはあるまい……』


 オルトスはそう確信していた。権力というものに飽くなき欲求を持っているワグナスがパン屋の娘を妻とすることなど考えられなかった。


 『私も悲恋だが、ファランも報われんとは』


 人の色恋沙汰というものは政治などというものよりも複雑で上手くいかないものらしい。オルトスにはもはや自分には打てる手がないので、時の流れに任せるしかないと思った。




 それから数日後、オルトスは再びワグナスから誘いを受けた。


 「今夜はちょっと付き合ってくれ」


 昼時に皇宮で袖を引かれたオルトスは、ちょっと意外に気がした。これまでワグナスに何事か誘われることはあったが、こちらの都合を聞かず強引に誘ってきたのは始めであった。


 「どこの晩餐会だ?それとも舞踏会か?」


 「晩餐会でも舞踏会でもない。個人的にビルバネス公爵に招かれた」


 「ビルバネス公爵家……」


 帝国の中でも大家である。貴族というよりも皇族である。皇統の血を引きながら数代前に臣籍に降下したものの、長く帝国における権勢家としてその名をとどろかせていた。しかし、ここ最近では宰相であるマベラ・ベイマンを中心とした現役閣僚の一派に押され、その勢力に陰りが見えていた。


 『なるほど……』


 公爵家がワグナスに近づき、ワグナスもそれを喜んでいる意味合いがオルトスには手に取るようにわかった。双方とも宰相一派と対抗するために手を結ぼうとしているのだ。


 『これは危うい……』


 オルトスは極力、権力闘争の外に身を置きたかった。下手にこれらと関われば、オルトスにとっては本意ではない権力闘争に巻き込まれるかもしれないのだ。


 だがオルトスは一方でワグナスのことを案じていた。権力に対して飽くなき欲求を繰り返す友人に対する歯止めがどこかで必要であり、それが自分以外にありえないと思っていた。結局、オルトスはワグナスの誘いに応じることにした。

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