外伝Ⅱ 妖花~その3~

 翌日の夜、今度は食堂でワグナスと出会ったオルトスは、何気なく雑談をする機会に恵まれた。開口一番、ワグナスが言った言葉にオルトスは全身が痺れた。


 「私は帝国を変えたいと思っているんだよ」


 これまでオルトスは、自らが官吏になるのは己が名誉と富のためであり、あるいは故郷のためであると考えていたのだが、ワグナスのそれは違っていた。この一言がオルトスの人生を一変されたと言っても過言ではなかった。


 「君は今の帝国の政治をどう思っているんだい?」


 どう、と問われてもオルトスは返事をできなかった。オルトスは現在の帝国の政治に対してさしたる定見があるわけでもなく、そのようなことを論じる気持ちも持ち合わせていなかった。ワグナスの真っ直ぐな視線で問われると、オルトスは自らが恥ずかしくなり目を伏せた。


 「恥じ入ることではないよ。ここにいる連中のほとんどがそうだ。君は気が付いて、恥を感じただけでもほかの連中より数十倍ましだよ」


 「そう言ってくれるとありがたいけど、今の政治に不満なのかい?私からすれば平和で穏当な世界じゃないか?


 ここ数年、帝国の政治と経済は安定していた。目立った内乱は数十年起きておらず、貧困による一揆や飢饉も発生していなかった。


 「それは先帝の威光によるものだ。謂わば先帝が築いた遺産を食い潰しているのだ」


 「ザーレンツ君。口を慎んだ方が……」


 オルトスは慌てた。周りには人がいる。ワグナスの言っていることは明らかに皇帝と帝国の政治に対する批判である。誰の口から憲兵に密告されるか分からなかった。


 「大丈夫だよ。誰も聞いてはいない」


 確かにこちらに顔を向ける者はいない。書物に熱中しているか、仲間同士で口答試験の練習をしていた。


 「それに密告して逮捕するならすればいい。真の忠臣の諫言を聞き入れないのであれば、帝国はそれで仕舞だ」


 これは少し後に知ることであるが、ワグナス・ザーレンツの先祖は帝国貴族であった。ワグナスから数えること五代前の当主が皇帝に対して手厳しい諫言を行い、貴族の座を追われたのである。そのことがワグナスの誇りになっており、人格すらも形成されていた。


 「先帝は偉大だった」


 ワグナスの顔が紅潮してきた。まるで酒にもで酔っているかのようであった。


 オルトスも先帝―ガハラ帝―の偉大さについては異存がなかった。国庫の支出を極度に押さえ、帝国の経済の健全化に尽力した。おかげで国庫の資金は潤沢になり、ガハラ帝はその資金を使って農地改革を行なおうとした。しかし、その矢先、ガハラ帝は病に倒れた。


 「先帝が作り出した資金はどこに行ったか?先帝が志した農地改革はどうなったか?明確に答えられるかい?」


 答えられないだろう、とワグナスは自答した。


 「今上皇帝はその資金を持って美食と美酒に酔い、美女をはべらせている。家臣達はそれに対して諫言しないばかりか、阿諛追従し、そのおこぼれにありつこうとしている。浅ましい限りだ」


 そのようなことはオルトスも風聞として耳にしていた。しかし、すべては天上での出来事のような気がして、実感のない話であった。


 「だが、陛下が悪いわけではない。悪いのはその回りに侍る佞臣どもだ」


 そう言われてもオルトスにはぴんと来なかった。カールネーブル領の田舎で育った身としては、皇宮の内情などまるで知らなかった。


 「臣というものは、国家国民の安寧と万民に慕われる陛下をお守りするためにある。それなのに、今の臣下どもはどうだ?宰相のベイマン卿は、陛下のご機嫌取りだけで現在の地位にまで昇ったような御仁だ。その一方で私服を肥やしている。心ある延臣は心を痛めている」


 「君は詳しいな」


 「これでも元々は皇帝の臣だったんだ。帝室には未だ知己があるんだ」


 自分の出自が貴族であり、皇帝の臣下であったことがよほど誇りであったのか、ワグナスはこの台詞を度々口にした。この瞬間ばかりは、他者を見下したような態度になり、そのことがワグナスの身に不利益をもたらすこととなるのであった。


 『それにしてもこの男は凄い……』


 オルトスはワグナスとの対話を通じて感嘆するばかりであった。出自は悪くなく、志も高い。当然ながら見識も高く、この男なら間違いなく試験に合格するだろうとオルトスは軽い羨望と嫉妬を覚えた。


 それに美貌である。ワグナスが皇宮に入れば、きっと貴族の子女達の人気を攫っていくだろう。


 「どうしたんだね?私の顔に何かついているかい?」


 ワグナスの顔をまじまじと見ていたらしい。オルトスは赤面した。


 「はは。初めて会った時、女とでも思ったのだろう?古のカスティフィアみたいだと……」


 いや、とオルトスは口では否定したが、実際そう思っていた。


 帝国の官吏登用試験の規定では男女の性差を問うていない。従って女性であっても試験を受けることは可能であるが、実際に受験するのは男性ばかりである。


 しかし、過去に一人だけ女性が受験し、合格したものがいた。それがカスティフィアである。頭脳聡明で、その知識と才覚は他者を寄せ付けず、第一位で合格をしたほどであった。それに加えて世に稀なる美貌であった。当時の皇帝のどの寵姫よりも美しく、当然のように皇帝の目に留まって寵愛を受けた。が、そのことが災いとなった。カスティフィアは后や寵姫達の嫉妬を買い、皇帝が巡行中に毒殺され、四肢を裂かれて河川へと投棄されたのだった。以後、女性が官吏登用試験を受ける女性は皆無であった。


 「カスティフィアは悲惨な目に遭ったが、その才知はあやかりたいものだ」


 ワグナスは笑いながら言った。

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