外伝Ⅱ 妖花~その2~
帝暦七一一年、桜花の月。帝都ガイラス・ジンが一年で最も華やぐ頃であった。
季節としては冬が終わりを告げ、春を迎えんとしていた。しかし、まだ肌寒くはある。
それでも帝都の往来には人が溢れ、厳しい寒さから解放された空気が漂っていた。この時期、帝都に最も人と金が集まるといっても過言ではなかった。
毎年桜花の月になると、帝都で帝国の官吏登用試験が行われる。帝国全土から千人近い若者が帝都に集まってくる。彼らは一ヶ月近く帝都に滞在することになる。受験生ばかりではない。その家族や教師なども帯同してくる場合もあり、それにあわせての経済消費も多くなるのであった。
「これが帝都か……」
ここに若き青年がいた。オルトス・アーゲイトは都大路に佇み、人の往来の多さと森林の樹木のように乱立する建築物に驚き、都市の喧騒にため息をついた。もう夕刻であるというのに人の群れが消える様子もなく、建物の軒先から漏れる灯りが街の全体像を浮き上がらせていた。不夜城とはまさに帝都のことを言うのだ、とオルトスは感嘆するしかなかった。
彼もまた官吏登用試験を受けの来たのだが、経済的な理由でただ一人での上京であった。彼の手元にはわずかに二週間ほど帝都で生活できるほどの金銭しなかった。
実際の試験期間は一週間で、受験をする者達は前もって帝都に泊り込み、試験の準備を行っていた。試験内容は多岐に渡る。帝国の歴史、国語、天文、窮理学などに関する筆記と口答試験。その他に面談、武術、作法なども含み、それを一週間で詰め込むと言う過密な日程で行われていた。その中で合格できるのは毎年五名程度の非常に狭き門となっていた。
その狭き門に挑むオルトスの双肩には故郷の期待がのしかかっていた。帝都での滞在費用も故郷の人達からの寄付によるところも大きかった。
オルトスは、帝国北部のカールネーブル領のさらに北部の小さな村テルパで生まれた。幼い頃から神童と呼ばれるほど頭が良かった。村の塾に入るとすぐさま読み書きを覚え、勉学において瞬く間に年長者を追い越していった。これに驚いた村長はオルトスを領都にある塾に入るように両親を説得し、了承させた。十二歳にして単身領都に向かったオルトスは、そこでも神童振りを発揮し、領内では並ぶもののいない天才児になっていた。塾の教授などは、真綿が水を吸うが如く知識を吸収していく、とひたすら感嘆した。
『これはひょっとして帝国の官吏になれるかもしれない……』
オルトスの名声を聞くにつれ、そう思うようになったのは村長であった。この村長としてはオルトスが領の官吏程度になれればと思っていたのだが、オルトスの才は村長の期待の遥か上をいっていた。もし村から帝国の官吏が生まれればこれほどの名誉はない。それは領主も同じであった。領主もオルトスのことを知っており、
『アーゲイト少年は我が領始まって以来の神童だ。ぜひとも我が領に欲しい人材であるが、帝室のために役立てるのなら我が領の誉れでもある。可能な限り援助しよう』
とオルトスの旅費や滞在費なども一部拠出してくれた。そういう期待がオルトスに圧し掛かっていた。
『故郷の名誉か……』
オルトスには気負いがあった。故郷の期待が重圧になっていたが、それ以上にオルトスの気を重くさせていたのは帝都という街の大きさであった。あるいは帝国そのものと言って良いかもしれない。
これまでオルトスの天地といえばテルパ村であり、カールネーブル領だけであった。天地が急に広がり、怖気ついたとも言える。ともあれ、オルトスはこれまでまるで縁のなかった世界を直面し、恐怖に近い感情をもっていた。
帝都に到着したオルトスは、ひとまず投宿した。都大路から二筋ほど路地に入った宿で、官吏登用試験を受ける受験生の定宿となっていた。
「お頼み申しあげます」
オルトスはおずおずと軒を潜った。受付は受験生と思しき客でごった返していた。
「お名前は?」
しばらく待たされた後、帳面を手にした主人がやってきた。
「オルトス・アーゲイトです。カールネーブル領テルパ村出身……」
「はいはい、アーゲイトさんね。今日から二週間ね」
主人は手馴れたもので、てきぱきと受付を済ませていく。オルトスが手付金を払うと、部屋の鍵を渡された。
オルトスの部屋は二階であった。重たい荷物を引きずるように二階へ上がった。部屋は個室であった。そういえば聞こえがいいが、粗末なベッドがひとつ置かれているだけの狭い部屋で勉強ができる机も椅子もなかった。
「勉強は食堂と広間か……」
一階に食堂と広間があり、勉強する時はそこを使うように主人が言っていた。場所と灯りに使う油や蝋燭を節約するために、このような方式が取られていると言う。
「落ち着いて勉強できるかどうかだが……」
贅沢は言ってられなかった。オルトスは荷物から本を二冊取り出すと、さっそく食堂に向かった。食堂には官吏登用試験を受ける人々が集まっていた。二、三十名はいるだろうか。ある者は飯を書き込みながら本を捲り、またある者は食事もせずに必死に筆を走らせていた。
落ち着かないな、と思いながらオルトスは、一番奥に席についた。本を捲ろうとしたが、少し離れた所に座っている三人の男達がなにやら小声で話していた。お互いに問題を出し合って、口答試験の練習をしているようだった。
『これなら部屋のベッドの上で本を読むほうがましだ』
と思いなおし、早々に席を立った。
すでに夜になっていた。窓がない廊下は蝋燭を火を点さないと歩けないほどであった。角を曲がると急に明るくなった。突き当たりの窓から月光が差し込んできた。その窓辺に人がいた。窓に背中を預けて外を眺めていた。その顔にオルトスはどきりとした。
『女か?』
オルトスは一瞬そう思った。女だとすれば生を受けてからこれほどの美女を見たことがなかった。村一番の美女、領内一番の美女という女性を見てきたが、この人物からすれば足元にも及ばなかった。
「どうしましたか?」
その人物がオルトスに気がついた。高い声であったが、それは紛れもなく男の声であった。ややがっかりとしたオルトスは、何か声をかけねばと思った。
「何をしているのかと思って……」
「月を見ていたんですよ。今日は月が綺麗だ」
見て御覧なさい、と促されたのでオルトスは彼の隣に並んで夜空を見上げた。確かに綺麗に満月であった。しかし、それ以上に端正な彼の顔のほうがよほど綺麗であった。
「勉強しないのかい?」
この宿に泊まっている以上、彼も官吏登用試験を受けるのだろう。
「今更勉強しても同じですよ。この一週間勉強したところで得られるし知識なんて知れていますよ」
それよりも月でも見て心を落ちつかせたい、という彼の口から余裕が漏れているような気がした。オルトスは正直羨ましかったし、懇意になりたいと思った。彼に近づけば、その余裕を分けてもらえるような気がしたのだった。
「私はオルトス・アーゲイトと言います。君は?」
彼の表情が和らぎ、形の整った唇が動いた。
「ワグナス・ザーレンツ」
後世、悪逆の臣として名を残すワグナス・ザーレンツとその親友であるオルトス・アーゲイトの始めての出会いであった。
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