外伝Ⅰ 朝霧の記~その38~

 ナオカに帰還したその日の夜、スレスが見舞いにやって来た。ツエンは起き上がって迎えたかったが、もう気力も体力も起き上がるだけの力は残されていなかった。せめて上半身でも起こすと体を動かすが、全身に痛みが走り、左半身を微動させるのがやっとであった。そこへスレスが姿を現した。


 「無理をするな。寝ておけ」


 スレスは慌てて枕頭により、ツエンを介助して寝かせた。


 「畏れ入ります」


 「相当ひどいようだな」


 「怪我はひどいですが、こうして意識ははっきりとしております」


 「しっかりと養生してくれ。お前には今後も私とナガレンツを導いて欲しい」


 「勿体無いお言葉です」


 「お前を失っては、私は片腕をもがれてしまうようなものだ」


 主君に必要とされていることは武人としてこれ以上の誉れはなかった。だが、ツエンの命はそれほど長くはない。ツエンを必要としない新しいナガレンツ領が生まれるべきであった。


 「ナガレンツには有能な人材が多いです。ギルギス殿は平時であれば充分に領内を宰領していけます。また手前味噌ながら我が義弟サダランは物事の処理能力に長けております。そしてスレス様自身も人を見る目がおありです。ぜひお眼鏡に適う有用な人材をご登用ください」


 ツエンは言いながらまるで遺言だな、と思った。事実、これがツエンのスレスに対する遺言となった。




 スレスが辞した後、ツエンは眠りについた。


 そのせいで深夜になって目が覚めてしまった。見上げるとクノが枕頭でうつらうつらと舟を漕いでいた。


 「クノ。風邪引くぞ」


 ツエンの声は掠れていた。聞こえなかったのか、クノはまだ静かに寝息を立てていた。


 「おい、クノ」


 ツエンがあらん限りの力を込めて声を出した。クノははっと目を開けた。


 「すみません。思わず寝てしまって……」


 「俺のことはいい。お前も寝ろ」


 しかし……とクノは困惑していた。妻として重病の夫の傍を離れるわけにはいかないと言いたげであった。


 「構わねえよ。今は調子がいい。それにお前まで倒れられたらガーランド家はおしまいだ」


 「では、またお眠りになるまでは……」


 クノは愛しげにツエンを見つめた。


 『やはり俺には過ぎた女房だ』


 ツエンは感謝しかなかった。普通の男のもとに嫁げば平穏で幸せな生活を送れただろうに、ツエンという男を亭主にしてしまったがため、早々にして寡婦にならんとしている。クノはきっとそのことを覚悟しているだろう。覚悟していながらそれを表に出さないクノの気丈さと聡明さは、本当にツエンのような不良亭主には勿体無かった。


 「クノ。すまなかったな。こんな亭主で」


 「またそれですか。そんなこと仰らないでください。私はあなたの妻であることはとても楽しいですよ。まだまだ楽しませてくださいね」


 そう言いながらもクノの目には涙が僅かに光っていた。そして手をお腹に当てて摩った。


 「実は……どうも……」


 照れ臭そうにクノは言いよどんだ。しかし、ツエンはそれだけで察することができた。


 「子供か……」


 ツエンは驚いた。驚きと喜び、そしてその子供の顔を見ることはないだろうという悲しみ。あらゆる感情がこみ上げてきたが、それを押し殺して言わねばならぬのが今のツエンであった。


 「もし生まれてくる子が男児であれば、なにも無理に俺や親父と同じように官吏にする必要はない。画家になりたければ画家になればよいし、商人になりたければ商人になればいい。勿論、官吏になりたければ好きにさせればいい。ナガレンツに必要なのはガーランド家の血筋ではなく、有能の人だ」


 クノが困惑した顔を浮かべた。そしてはたと何かに気がつき、机の上の紙とペンを引き寄せ、ツエンの言ったことを書きとめ始めた。遺言であると判断したのである。


 「生まれてきた子が女児であったなら、婿養子を取る必要はない。ガーランドの名跡など潰えたところで何も変わらん。それよりもその子の幸せだけを考えてやってくれ」


 はい、とクノはペンを止めて頷いた。


 「細かなことは親父達に相談してクノの思うようにやってくれ。それと今日はもう寝よう」


 再び、はいと言ったクノの頬を涙が伝った。




 翌日、ツエンは朝食を食べられるほど小康を得ていた。しかし、昼過ぎになって嘔吐と喀血を繰り返し、度々意識を失った。もはや医者も手の施しようがなく、状態を見守るだけであった。


 夕刻になり、イギルをはじめスレス、そして老公も駆けつけてきた。だが、ツエンは一言も声を発することもなく、一度も彼らの声に応えることももなく、息を引き取った。


 ツエン・ガーランドという乱世の終息期に出現した異才は、彗星のように出現し消えていった。その地上の片隅で明滅した光芒の強さは、長く歴史に語られることとなった。

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