外伝Ⅰ 朝霧の記~その37~
エルガン峠で勝利を得たツエン達が領ナオカに凱旋したのは、若葉の月十二日のことであった。新帝国軍が正統帝国軍を破り、ジェノイバ領を占拠したと言う情報を得たので、一部部隊を残して帰還を命じたのであった。
圧倒的多数の敵に対し、一時はエルガン峠を奪取されたが、最終的にはナガレンツ領から叩き出すことに成功した。大勝利と言っていいが、ナオカへと戻る隊列は凱旋という華々しい言葉からかけ離れたものであった。
兵士達は疲れきり、表情も沈んでいた。長きに渡る戦闘による疲労もあったが、何よりも彼らの精神的支柱であるツエンが負傷したのが彼らの気を重くしていた。
道中、ツエンはずっと寝台付きの馬車の中で寝かされていた。軍医の手当てによって傷口が塞がり止血することはできたが、断続的に貧血と発熱を繰り返し、起き上がることができなくなってきた。
『どうやら俺はここまでらしい』
やけにはっきりとしている意識の中で、ツエンは己の死期を悟った。だが、必死に自分を生かそうとしている軍医に申し訳ないので、ツエンはあえて何も言わずにいた。
『俺は人生の中で何を成しえたのか……』
揺れる馬車の屋根を見つめながら、ツエンはずっとそのことを考えていた。ナガレンツ領の政治を総攬する立場に立つことを誓い、その誓いは現実のものとなった。ラブールから教わった政治思想のもと行った政治と経済の改革も、道半ばながらも基礎を築くことはできた。
そして、帝国に訪れた未曾有の混乱の中でも、ナガレンツ領の保全と武人としてのマノー家の矜持を守ることにもなんとか成功した。おそらくはツエンでなければ成しえなかったことであろう。
『充分じゃねえか』
ツエンは満足であった。死期の近づいた人間がこれ以上のことを求めるのは贅沢であろう。ツエンはそう思うことにした。
ツエンはナオカに到着するとそのまま家には運ばれた。ツエンは先にスレスに報告に行くと言ったが、聞き入れられなかった。この時すでにツエンの左腕は動かすことができず、右太股も膨れ上がっていた。
玄関先には父と母、そしてクノが迎えに出ていた。三人とも悲痛さを隠しながら気丈な表情でツエンが運ばれていくのを黙って見守っていた。
『流石は武人の家だ』
ツエンは心の中で満足していた。誰か一人でも取り乱すような真似をしたならば、意地でも起き上がって怒鳴り散らすところであった。
ツエンが帰還したとの報告を受けて、まずは家老のイギル・ギルギスが飛んで駆けつけてきた。
「悪いのか?」
そう言って枕頭に座ったイギルにも憔悴の色が見えていた。ツエンが前線に出て以来、ナオカを任されていたの家老のイギルであった。もう一人の家老であるマシューがおよそ仕事のできる男ではなかったので、どうしてもイギルに処理案件が集中していた。
「イギル殿も顔色が優れませんな。迷惑をかけています」
「私の苦労など物の数ではない。今まで怠けすぎていただけだ」
それよりもお前のことだ、とイギルは言った。
「スレス様も老公も心配しておられた。実際どうなのだ?」
「そればかりは分かりませぬ。人の生死ばかりは天命ですから……」
「……。ひとまずは安静にしてくれ。それよりも今後どうしたらいい?」
「まずは武装解除せぬことです。新帝国と正統帝国の戦争は終結しましたが、まだすべてが終わったわけではありません。いずれ新帝国がナガレンツにやってきて交渉となるでしょう。交渉が妥結する前に武装を解除しては我らが負けたという印象を植え付けてしまいます。我らは敗北したわけではありませんから、一戦交える覚悟で交渉に当たってください」
イギルはツエンの一言一言に深く頷いた。
「新帝国には我が友アルベルトがいます。彼は聡明ですから、決してナガレンツにとって悪いようにはしないでしょう。こちらはあまり欲の皮を張らずに速やかに妥結することです」
「その交渉、できればお前にやってもらいたいのだが……いや、言うまい。お前にはここまで無理させたのだ。後は我々に任せろ」
「よろしくお願いします」
枕頭から立ち上がるイギルを見送ったツエンは、急に疲れを覚えたので眠ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます