外伝Ⅰ 朝霧の記~その34~

 明朝。日はまだ山の稜線から出ていないが、空はわずかに白み始めていた。同時に朝霧が一面を包み込んできた。


 「この朝霧よ!」


 ツエンは両手を広げて快哉を叫んだ。


 「この朝霧こそ天佑。ナガレンツ独特の朝霧が我らを救ってくれる!」


 この濃霧なら敵に気づかれる近づくことができる。まさに天佑であった。


 さらにツエンを喜ばすことがあった。戦列に加えたツオの町の者達がツエン達も知らぬ間道を知っていたのである。ツエンは自ら彼を率いて間道を進んだ。


 「この道は関所の向こう側にも出れますぜ」


 義勇兵の代表格の男―オーリンは自慢げに言った。元は博徒の親分であった彼は、きっとこの間道を使って関所破りをしていたのだろう。


 「この道を使ってまた悪さをするつもりであろう」


 「冗談はやめてくだせえ。今更元の世界には戻れませんぜ」


 「そうであって欲しいな」


 「総裁がおられる間は真面目に生きていきますよ」


 オーリンは笑った。ツエンもつられて笑った。これならばオーリン達のような不良も更生しただろう。


 間道を登り始めて半刻。眼下にわずかに敵陣が見えてきた。朝霧の中でこれだけ見えるということは随分と近いようだが、敵兵はまるで気がついていない。それどころか見張り台にいる兵達も立ちながらうつらうつらと舟を漕いでいた。


 「これならば味方の本隊も見つかっていないな」


 ツエンは安堵した。ジャネルが率いている本隊は主たる山道を進んでいる。こちらも朝霧に身を隠し、じりじりと峠に接近していた。


 「総裁。もう少し先に行きますか?」


 オーリンが耳打ちした。


 「そうだな。ナガレンツの反対側から攻めてきたとなれば敵も動揺するだろう」


 ツエンとしてはここで決着をつけたかった。ナガレンツ領の力を考えれば、戦はこの辺りが限界であった。敵を徹底的に叩き、後は正統帝国と新帝国の決着を待つしかなかった。


 ツエン達はさらに先に進んだ。ちょうどナガレンツ領の反対側の門が見えてきた。ここで待機し、示し合わせた時刻まで待つことになった。


 日が昇りきった。朝霧が晴れつつあった。


 『そろそろか……』


 そう思ってわずかばかり時間が過ぎた時であった。味方の鬨の声が上がった。ジャネルの部隊が攻撃を開始したのだ。


 ツエンはオーリンに目で合図した。オーリンは頷き、すっと立ち上がった。他の義勇兵達も立ち上がった。


 「突撃ぃぃぃぃ!」


 オーリンが山々に響き渡るほどの大音声で叫んだ。彼らは抜刀し、傾斜を駆け下りていった。


 乱戦となった。多くの敵兵が連日の戦で疲労していて熟睡しており、当直の兵達もまどろみの中にいた。そこへの奇襲なので敵の動揺は激しく、主将のミナレスなどは鎧もつけず宿舎を飛び出す始末であった。順当に行けばナガレンツ軍の圧勝で終わるはずであった。


 しかし、正統帝国軍にとって幸運だったのは、麓に待機していた一部部隊が峠にいる部隊と交代すべく、山道を登っている最中であった。この部隊はエルガン峠での異変を察知し、駆けつけてきたのだ。正統帝国軍は体勢を立て直した。狭い峠の砦の中は寸土を奪い合う激戦となり、一進一退の攻防が続いた。


 「どうだ?」


 間道からの奇襲部隊を率いていたツエンは、ジャネル達と合流した。前線である。わずかな遮蔽物の陰に身を潜め、敵の矢がやむ一瞬を待っている状況であった。


 「総裁。お下がりください」


 「構わん。突撃できそうか?」


 「じりじりとではありますが、こちらが押しています。矢の勢いが衰えたところで突撃したいと思います」


 「もう一度オーリン達を使って間道からも攻撃させよう。そうすれば敵の攻撃も弱まってくるだろう……」


 さらに詳細な命令を下そうとした時であった。飛来してきた矢が矢盾を突き抜け、ツエンの左肩と右太股に突き刺さった。


 「うっぐっ!」


 ツエンはその場に倒れこんだ。


 「総裁!」


 「騒ぐな!大将がやられたと知れると士気に関わる」


 「しかし……」


 ジャネルの顔は青ざめ、明らかに動揺していた。


 「俺に構うな。命令を遂行させろ」


 了解しました、とジャネルが間道に潜んでいるだろうオーリンに伝令を出した。ツエンがそのやり取りに満足していると、軍医が走ってやってきた。


 「手当てはここでしてもらうぞ。後方に下がる必要はない」


 「もとより。ちゃんとした手当てとなると、あの宿舎でないといけませんからな」


 軍医が言う宿舎はまだ敵の手にある。


 「そうだな。早々に奪還してもらわんとな」


 矢を抜かれると、大量に出血した。一瞬意識を失いかけたが、強靭な意識でなんとか持ち直した。


 『そう簡単に死ねるか……』


 包帯を巻かれる最中でもツエンは戦況を見守り、時折必要な指示を随時出し続けた。


 ツエンの執念がナガレンツ軍全体に乗り移ったかのような猛攻が続き、ついに正統帝国軍は雪崩のように退却を始めた。


 「徹底的追え!奴らに二度とナガレンツの地を踏もうと思わすな!」


 そう檄を飛ばしながら宿舎に運び込まれたツエンは、本格的な手当てを受けながら度々意識を失った。夜半には敵軍をナガレンツ領から完全に追い出すことに成功し、翌日には撤退を開始した。


 その報告をナオカへと送致される担架の上で聞いたツエンは、ただ頷くだけであった。

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