外伝Ⅰ 朝霧の記~その33~
エルガン峠失陥の知らせを受けたツエンはツオの町へと急いだ。それほど大きくない町には敗残兵達が溢れていて、傷の手当を受けたり、立ちながら飯を食っていた。ツエンはそれを横目にしながら本営の天幕に入った。
「状況は?」
本営にはエルガン峠を守っていた諸隊の隊長達が揃っていた。彼らはツエンの顔を見ると一様に安堵の表情を浮かべた。
「総裁が東口に向われた後、敵が猛攻を仕掛けてきました。なんとか持ち堪えようとしたのですが、支えきれませんでした。その渦中、アンバラン殿が戦死されました……」
と報告したのは二番隊のジャネル・ヴィン隊長であった。面子の中にゴーリーの姿がなかったから察してはいたが、明確に報告されると衝撃的であった。
「一番隊の残像兵は各隊に分配する。損害の激しい部隊から優先して補充してくれ」
「承知しましたが、これから如何しましょう?」
ジャネルが不安そうに尋ねてきた。ここにきてツエンは、自身が総裁などという独裁者に等しい地位を得た弊害を感じずにはいられなかった。
『大局に立って物事を判断できる人間がいない……』
そのような人間はツエンひとりしかいなかった。だからツエンが東奔西走せねばならないし、この場でも諸将をまとめあげなければならなかった。
「当然エルガン峠を奪還する」
ツエンはそう言いながら一度天幕を出た。遠くエルガン峠には敵軍の松明が点されていた。
『動く気配はない……』
しかし、日が昇ればすぐにでも攻めてくるだろう。次の攻撃目標はこのツオの町になる。この町を戦火に巻き込むわけにはいかなかった。
『明朝にも奪還すべきだ。しかし……』
味方の兵は傷つき、数も減っている。手持ちの数だけで奪還できるかどうか不安ではあった。
「残っている兵はどれほどか?」
ツエンが天幕の中を覗きこんで聞いた。
「総裁が東口からお戻しになられた兵力を合わせて四百程度かと……」
「二百近くも動けんのか……」
せめてあと百、いや剽悍な決死の士が五十でもいればと思うのだが、今のナガレンツ領にもはや余剰戦力は残されていなかった。
「総裁、よろしいでしょうか」
ツエンが腕を組み思案していると、見張りの兵が駆け寄ってきた。
「どうした?」
「町の者達が総裁にお会いしたいと……」
苦情を申し入れてきたのだろうか。ツオの町を含めた南部はもともとマノー家の領地ではなかったので、ツエンも監理官時代に苦労させられてきた。きっとマノー家が始めた戦争を迷惑に思っているに違いない。ツエン自身が説得しないといけないだろう。
「会おう」
ツエンは見張りの塀に案内させた。案内されたのは町の広場で、屈強な男達が鋤や鍬といった農具を持って座り込んでいた。中にはツエンの見知った顔もあった。
「お前らの言うことは分かっている。ツオを戦火に晒すようなことはしない。我らは明朝にも出陣するからそれまで堪えてくれ」
「そうじゃありません、監理官、いえ総裁。我らもぜひ戦列に加えて欲しいんです」
代表格と思われる男が口を開いた。確か元はツオの近郊で賭場を開いていた博徒の親分であった。現在は宿を営んでいるはずである。
「ふざけるんじゃねえ。戦は武人の仕事だ」
ツエンは凄んだ。これは本心であった。戦は武人がするものであり、民間人は巻き込まない。それがナガレンツ領の武人の矜持であった。柔軟で革新的な思考をするツエンでさえ、そういう精神を捨てれずにいた。
「総裁が仰ることは分かります。はっきり申しあげて我々はマノーの家が滅びようがどうなろうが知ったことじゃありません。ただ俺達はツオの町とナガレンツを守りたいんです」
彼らの目は真剣であった。ツエンもその視線にややたじろいだ。
「決して楽な戦じゃねえぞ。命の補償はねえぜ」
「もとより。それに総裁には我らの暮らしを良くしていただいた恩があります。マノー家のためではなく、総裁の為に働きたいのです」
男は即座に言った。一同が同意するように頷いた。
『馬鹿野郎だな。俺なんぞ命をかけるような存在じゃないのにな』
だが、ひとりの男児としてこれほど嬉しいことはなかった。
「死んでもなんの得もねえぞ。武人じゃないから、死んでも恩給も出ねえぞ」
「構いやしません。何度も言いますが俺達は総裁とナガレンツを守るために働きたいのです」
『言うじゃねえか……』
ツエンは目頭が熱くなってきた。この男達の精神こそナガレンツ領に生きる者達の魂であった。武人だけではなく、市井で生きる民草までもが武人に等しい精神を持っていたというのは喜ぶべきことなのだろう。
「そこまで言うのなら分かった。好きにしろ」
おおっと歓声があがった。ツエンがナガレンツ領で行ってきた施策は間違いではなかった。そのことを確認できただけでもツエンは満足であった。
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