外伝Ⅰ 朝霧の記~その32~

 敵の増援がナガレンツ領の東方に接近していると知ったツエンは、表情にこそ出さなかったが大いに焦った。


 『最も恐れていた展開になった』


 ツエンが恐れたのは戦線が複数になることであった。ナガレンツ軍の兵数が限られている以上、二箇所以上での戦闘になると、どうしても兵力不足に陥ってしまう。


 『敵も新帝国との決戦を控えているのにわざわざ増援を出したとなると、ナガレンツを取りに来たということか……』


 敵の意図はどうあれ、ツエンとしてはナガレンツ領を防衛せねばならない。ツエンは、一番隊隊長のゴーリーを呼んだ。


 「敵の増援が東口に接近しつつある。すでに守りについている二百では心許ないからこちらから百名を引き抜いていく」


 「総裁自ら行かれるのですか?」


 「ああ。ここの守りはアンバランに任す」


 「承知しました」


 ゴーリーは嬉々として応じた。この猛将は困難な状況に直面すればするほど溌剌としてきた。それだけに頼りになるのだが、危険でもあった。


 「エルガン峠を守り抜いて欲しいが、無理はするな。危なくなったらここを放棄してツオまで撤退しろ。戦はまだ続く。御身と兵士達の命こそ大事だからな」


 ツエンはゴーリーに言い含めた。承知しました、とゴーリーは言ったが、ツエンは不安を感じたていた。ひとまずツエンは不安を億尾にも出さず東口へと急いだ。


 東口を守っていたのはツエンの義弟であるサダランであった。


 「義兄上!増援ありがとうございます!」


 「うむ。準備はできているようだな」


 東口は南口のような砦を築いていない。山道の幅も南口よりはるかに狭いので柵と土塁だけで間に合わせていた。


 『三百対五百か……』


 数的には不利である。しかし、南口ほど圧倒的な不利ではない。


 『寧ろ積極的に攻めて相手の出鼻を挫くべきか』


 そう判断した以上、行動は早いほうがいい。ツエンは間諜を放ち、正確な敵の数と位置を知ろうとした。情報は間もなくツエンの下に届けられた。東口に向っている敵はやはり五百。事前の情報と同じであった。まだ街道を北上しており、東口に登る山道には達していなかった。


 「サダラン、ここは任せる。俺は二百の手勢を率いて敵を奇襲してくる」


 「何を仰います。義兄上に万が一のことがあれば大変です。奇襲部隊は私にお任せください」


 「いや、俺がやる」


 ツエンは譲らなかった。総裁と言われる自分が陣頭に立って兵士達の士気を上げ、一気に敵を倒す。ツエンはそこに勝機を求めていた。


 ツエンは早速に二百の兵を率いて山を下りていった。但し主となる山道を使わず、間道を使った。こちらの方が敵に気づかれにくく、早道でもあった。


 ツエンの予測どおり、ツエン達は山道に入る前の敵軍を捕捉できた。敵はゆるゆると進んでいてツエン達にはまるで気がついていない。しばらく茂みの中に身を隠し、敵の様子を伺った。やがて一人馬に乗った兵士が姿を見せた。


 「あれが主将ではないのでしょうか?」


 ツエンに付き従ってきた六番隊の隊長エグニドが囁いた。ツエンは小さく頷いた。


 「弓」


 ツエンが低い声で命じると弓兵達が構え、手を振ると矢が放たれた。山の茂みから突如として矢が飛来し、敵軍は動揺した。矢を喰らって倒れる者や逃げ出そうとして転倒する者が続出した。


 「かかれ!」


 ツエン自ら剣を抜き、先頭を切って敵の密集する街道へと躍り出た。他の兵士達も後に続き敵に襲い掛かった。


 敵は混乱した。隊列は乱れ、兵士達は次々とナガレンツ兵の振るう剣の餌食となっていった。しかし、それは束の間のことであった。数に勝る敵軍は隊列を改め始め、混乱も収縮していった。


 「退け、退け!」


 ツエンの見極めは早かった。敵の混乱が収まってきたと見るや山の方へと引き返させた。敵が追ってくることはなかった。ひとまずは勝利を得たが、ツエンは気を引き締めさせた。


 「油断するなよ。間を置くことなく敵が来るぞ」


 ツエンは奇襲部隊を間道に潜ませた。夕刻近くになり、敵軍が再び隊列を整えやって来た。


 「随分と警戒していますね」


 エグニドが望遠鏡をツエンに渡してきた。ツエンも覗いてみると、確かに哨戒の兵がこちらの方ばかり見ている。


 「次は山道だな。敵が今日中にどこまで進軍してくるか分からんから警戒は怠るなよ」


 ツエンは望遠鏡をエグニドに返し、梯子を使って木が下りた。


 敵軍は強行軍できた。日が落ちても松明を掲げ山道を登ってきたのだ。


 『敵は焦っているな』


 慣れぬ敵地の山間部を夜に動くなど危険極まりない行為である。それをあえてやってきたということは、敵は明らかに勝負を焦っていた。


 『新帝国軍が迫っているのか、あるいは別の理由があるのか』


 ツエンとしてはどちらでもよかった。敵が焦ってくれればくれるほど戦は有利になる。


 「仕掛けるぞ」


 「承知」


 エグニドが矢を天高く放った。その矢先には燐粉が塗られていて青白く光っていた。それが合図であった。間道に伏せていたナガレンツ兵は声を上げることなく敵軍に襲い掛かった。


 狭い山道での乱戦になった。しかし、この状況では奇襲を仕掛けた方が圧倒的優位で、敵軍は壊乱して敗走した。


 「追え!奴らに二度とナガレンツの地を踏ますな!」


 夜の追撃戦は危険であるが、敵を一気に覆滅させる絶好の好機であった。ツエンは夜通しの追撃戦を敢行した。その成果もあって、東口に侵入してきた敵軍を壊滅させることができた。


 「これでこの方面は大丈夫だろう。俺は南に戻るから後を任せた」


 「承知しましたが、義兄上は少し休まれては……」


 「こんな状況で休んでいられん。南口が心配だ」


 ツエンは義弟のサダランにそう言い残し、南口へと急いで戻った。南口はナガレンツ領防衛の要である。


 『アンバランにはああ言ったが、エルガン峠を失陥しては、これを取り戻すのは大変だ。急ぎ助けてやらないと……』


 しかし、ツエンの心配は現実のものとなっていた。エルガン峠が敵に奪取されたのである。

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