外伝Ⅰ 朝霧の記~その31~
戦闘開始直後は矢の応酬となった。高所から矢を放つことができるナガレンツ軍の方が優位であったが、数は敵軍方が多い。敵は矢を射かけながら前線に楯を揃えてじりじりと接近してきた。
「総裁……そろそろ」
自らも弓を持っているゴーリーが身を寄せてきた。
「まだだ。もっと引きつけろ」
山道の両側は木々に覆われた傾斜になっている。敵軍はこのすり鉢の底のような山道を進むしかない。ツエンはその地形を利用することに活路を見出していた。
『地の利を得れれば勝てないまでも、峠を維持することぐらいはできる』
この場合、戦闘が長引くほどナガレンツ軍の方が有利になる。敵は遠征してきているだけではなく、主戦場は別にある。ナガレンツ領にだけ構ってはいられないはずだった。
『ここで敵兵の一部を釘付けにしておけば新帝国は有利になり、早々に正統帝国は粉砕されるだろ。そうなれば我らも解放される』
ツエンの打算はそこまで及んでいた。それにはまずここで勝利し、敵を怖気されるしかない。
「総裁!」
「かかれ!」
ツエンが上げた手を振り下ろした。山道の両側に潜んでいた弓兵が敵軍に対して矢の雨を降らせた。 敵は思わぬ伏兵に動揺した。じりじりと後退し始めている。ツエンはそれを見逃さなかった。砦の門を開き、歩兵を突撃させた。引き下がろうとしていた敵は完全に意表を突かれた。
「総裁、私も」
「おう。しかし、深追いはするな。太鼓を鳴らしたらすぐに引き上げて来い」
自らも剣戟を振るおうとするゴーリーにツエンは釘を刺した。あくまでもナガレンツ領としては峠を守り抜くだけでよく、無理をして敵軍を壊滅させる必要はなかった。
「退け退け!いや、退くな!」
敵軍は算を乱して坂道を転げるように後退していった。指揮するミナレスすら混乱する有様で、兵士達は秩序なく我先にと逃げ出していった。
『頃合か……』
ツエンは戦の潮目を読んだ。勝ちに乗じて深追いすれば、麓に控えている無傷の敵軍から反撃される可能性がある。それは避けねばならなかった。
「鼓を鳴らせ!」
ツエンが命じると、どんどんと二度太鼓が鳴った。それを合図に突撃した味方も山道の両側に潜んでいた伏兵も引き上げていった。
「それほどの首級をあげることはできませんでしたが、お味方の損害も少のをございます」
ゴーリーは興奮冷めあらぬ口調で報告してきた。
「決定的な勝利とは言えないまでも、まずはこれでよしとしよう」
「左様ですな。しかし、敵はまた攻めてきましょう」
「そうだな。兵士達には気を引き締めさせろ。敵は夜襲なり何なり仕掛けてこよう」
だが勝利の勢いは大事にせねば、とツエンは勝ち鬨をあげさせた。
麓まで追い落とされたミナレスは、残してきた兵力を使い夜襲を仕掛けようとした。
『敵も間髪容れずその日のうちに夜襲してくるとは思うまい』
ミナレスは夜になるのを待ち、兵を動かした。だが、夜襲である以上、松明など点けるわけにもいかず、灯りもない不慣れな山道を順調に行軍できるはずもなかった。大半の部隊が道に迷って本体から脱落し、なんとか砦に辿り着いた部隊も警戒していたナガレンツ軍に逆襲され、夜襲は見事に失敗した。
その後もミナレスは幾度も攻撃を仕掛けてきたが、ツエンが指揮するナガレンツ軍はその度に撃退した。関所に設けた砦は傷つきながらも健在であった。ミナレスは危機感を募らせた。
『このままではまずい……』
ミナレスが危惧したのは全体の戦況を鑑みてのことではない。ここでしくじれば、ミナレスの名声は下がり、正統帝国内での地位が危うくなる。ミナレスは恥を忍んでグランゴーに増援を求めた。
ミナレスの要請を受けたグランゴーが激怒したのは言うまでもなかった。
「小僧が!」
グランゴーは左右に人がいるにも関わらず叫び散らした。
「戦闘などせずにナガレンツを囲んでいれば良かったのだ!それも分からぬ痴れ者めが!」
怒りが収まらぬグランゴーであったが、同時に恐怖も感じていた。
『これでナガレンツが敵となってしまった……』
もしナガレンツ領方面で敗北し、ナガレンツ軍が領外に出てきたらどうなるか?新帝国軍と決戦している最中に自軍の横腹を突かれるかもしれない。
「やむを得ぬか……」
グランゴーは自軍の中から五百名を引き抜き、ナガレンツ領方面へと急発させた。
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