外伝Ⅰ 朝霧の記~その30~
『戦争になる……』
ツエンは、ややもすればふらつきそうになる足を意識しながら、ナガレンツ領へと急ぎ戻った。
戦争になろうであろうことは覚悟していたが、実際にそうなるとこうも動揺するのかとツエンは己の弱気を恥じた。
『ナガレンツの大地と領民を戦火に晒すことになる。これも俺の不徳とするところか……』
それとも力の無さか。己に才能があり、ナガレンツ領の政治を一手に見る立場になると豪語していても、戦という事態は避けれなかった。結果的にナガレンツ領を危機に晒すだけであった。
『俺もこの程度の男だったということだ』
ツエンは自嘲した。兎も角も正統帝国軍は間違いなくナガレンツ領に攻めてくる。ナガレンツ領は全力を挙げて戦うしかなかった。
領都ナオカに戻ったツエンは、事の次第をスレスに報告した。スレスは黙って聞き、最後に、
「ご苦労だった」
とだけ言った。
「領境で防ぎ切る所存ですが、ナオカにも戦火が及ぶかもしれません。スレス様はご避難ください」
ツエンはスレスに疎開を勧めた。しかしスレスは、
「ガーランド。私に恥をかかすな」
と静かに怒気を顕にした。
「これは失礼しました」
ツエンは頭を下げた。だがその後、家老のイギルに会い、
『もしナオカに敵兵が迫った時にはスレス様と供にナガレンツを脱出してください。新帝国の国師であるアルベルトは私の友です。彼の下に駆けつければ悪いようにはしません。すでに老公には話を通してあります』
と耳打ちをし、了解を得た。これで後顧の憂いをなくしたツエンは、部隊の配置を行った。ツエンの手元には約千名の兵がいる。これを十の部隊に分けたのは先述した。このうちナガレンツ領に至る三つの攻め口に配置しなければならない。最も攻めてくる可能性が低い北口には百名、東口には二百の兵を配置。それと念のために領都ナオカに警備の兵百名を残すことにした。激戦が予想される南口は六百の兵で守りきらなければならない。すでに関所は簡易ながら要塞化し砦としているが、六百人は収容できない。
『ひとまず三百の兵を峠に陣取らせる。そのうち二百は麓で待機して交代要員とし、残りの百は遊撃に使う』
ツエンにとっては初めての実戦あった。先の皇帝と教会の争乱ではスレスについて戦場に立ったが、あの時は実際に戦闘に晒されることはなかった。しかし今回は戦闘は不可避であり、ツエン自身がナガレンツ領の全軍を指揮せねばならなかった。
『俺にできるか……』
軍事の才能だけは実際の戦争の中でしか判断することができない。しかも、歴史が証明しているように軍事の才能は勉学で得られるものではなく、天性のものなのである。一介の少女でありながら、帝国を瞬く間に平定してしまったサラサ・ビーロスがよい例である。
『俺にサラサ帝ほどの才能があるかどうか分からんが、精々あがいてみるか……』
ツエン自らも砦に入り、陣頭指揮を取ることにした。
帝暦一二二五年桜花の月二十八日、正統帝国軍はエルガン峠を登り始めた。これに対しナガレンツ領は峠の関所を封鎖し、通さぬ構えを見せた。
「我は正統帝国軍ミナレス・バルトボーン将軍、ナガレンツ領領主スレス・マノーに問責すべき件がありナオカに向う。ここを通せ!」
ミナレス・バルトボーン自らが先陣に立ち、関所に向って叫んだ。その後には軍勢が山道を埋め尽くしている。
「私はナガレンツ領総裁ツエン・ガーランド。我らナガレンツの方針については宣告したとおりである。今回の争乱についてナガレンツは中立であり、正統帝国であろうが新帝国であろうが一兵たりとも領内には入れない。そのことをご承知していただき、早々に立ち去られよ」
ツエンも関所の見張台に登り、大声で言い放った。
「総裁。仕掛けましょうか?」
ツエンの隣で耳打ちしたのは一番隊の隊長を任せてあるゴーリー・アンバランである。ジギアスとサラサが戦ったエストヘブン領の戦いでは、ウイニに追従して満身創痍になりながら戦い生還した猛将である。
「こちらからは仕掛けるな。相手から仕掛けさせろ」
ツエンはあくまでも中立という言葉に拘った。中立である以上、こちらからは弓を放つことができない。
「ならば偽帝につく賊徒として成敗し、罷り通るまでだ!」
ミナレスが手を上げて合図すると、ミナレスの背後から弓兵が出てきて矢を射かけてきた。矢は放物線を描き迫ってくるが、楯に突き刺さるだけであった。ツエンはゴーリーに頷いて見せた。
「まずは俺の弓を見せてくれるわ!」
ゴーリーが近くに立てかけてあった弓を手に取り矢を番えた。弦を力一杯引き、矢を放った。びょうという轟音を立てて放たれた矢は、敵の弓兵の頭を貫き一瞬にして命を奪った。
「かかれ!一兵たりともナガレンツの地を踏ますな!」
ツエンが号令し、砦からも無数の矢が放たれた。後にナガレンツ戦争と呼ばれる戦いの始まりである。
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