外伝Ⅰ 朝霧の記~その29~

 正統帝国軍がナガレンツ領に軍を向けてきた。


 「来たか……」


 想定していたこととはいえ、ツエンは緊張した。一触即発、ナガレンツ領が戦火に巻き込まれる直前にまで事態は迫っていた。


 「諸隊は臨戦態勢に入れ。但し、まだ領境に配備はするなよ。敵を刺激したくない」


 この状況にあってもツエンは戦を避けようとしていた。そのために自ら正統帝国軍の本陣に訪れ、再度説得しようとしていた。


 「義兄上が行くことありますまい。僭越ながら私が参りますが……」


 サダランはツエンの身を案じ、そう言ってくれるが、譲るつもりはなかった。


 「俺でなくてはならん。一度ゲンビル殿が行って失敗しているのだ。それよりも下位の役職の者が行けば侮ったと思われるだけだ」


 「そうでありましょうが、万が一、義兄上の身に何かがあれば……」


 「その時は敵をあざ笑ってやればいい。和平に訪れた使者を害したとあれば、不名誉を被るのは奴らなのだからな。その不名誉を天下に喧伝して攻めてやればいい」


 ツエンはそう言い残し、供を二人だけ連れナオカを出た。


 正統帝国軍はすでにナガレンツ領南方のエイバー領にまで接近している。ナガレンツ領は山岳に囲まれた盆地にあるため、エイバー領から先は一山越えて行かねばならない。


 『この山系が戦場になろう……』


 ナガレンツ領に入るには三つの入口がある。北と東と南。このうち北は新帝国軍の陣営に近いため敵はまず入ってこれない。それは東も同様であった。山沿いの街道を進んで東側に出るしかないため、いつ新帝国軍に後背を攻められるか分からない。そうなると敵が攻めてくるのは南方しかなかった。


 「エルガン峠か……」


 それほど標高がなく、道幅は広い。戦闘開始となれば、ここに敵味方が殺到するだろう。奪い合いの激戦が展開されるのは間違いなかった。


 「ここを死守すれば勝てる。逆に奪われれば俺達が負ける」


 ここを守りきれば敵はナガレンツ領内に入ってこれない。逆に奪われてしまえれば、敵は味方を俯瞰して攻撃することができるし、領都ナオカまで一直線である。


 先に陣取るべきか。ツエンはそう考えないでもなかったが、それでは敵を刺激して談判も纏まらなくなる。本格的に戦闘が開始されるまでは部隊を麓に待機させておくべきだと考えを改めた。


 山を下ったツエンは、エイバー領のマルイユという町に入り、ここを拠点とすることにした。すでにエイバー領の領都には先触れの使者を出しており、エイバー領の家老であるシュルン・アヤンが待っていた。


 「これはアヤン殿、ご足労でございます」


 「ガーランド殿こそ」


 エイバー領は既出のとおり、スレスの実家である。隣接しているということもあり、古くから親交があった。ツエンも、シュルンとは幾度が面識があり、年も近いせいか話も合った。


 ただエイバー領の辛いところは、ジェノイバ領にも隣接しているため、面と向ってナガレンツ領を支持することもできないことであった。


 「大変なことかもしれませんが、正統帝国との橋渡し、よろしくお願いいたします」


 「承知しております。我らとしても戦争など望んでいません。しかし、成功するかどうか分かりませんし、成功したとしてもその後のことは保証できません」


 「勿論です」


 橋渡しをお願いするだけでもありがたかった。徒手空拳で正統帝国の陣営に乗り込んで追い返されるだけである。


 「これが書状です。正統帝国軍の将軍にお渡しください」


 「承知仕りました」


 シュルンは書状を受け取ると早速馬に乗って駆け出していった。ツエンは祈る気持ちで見守るしかなかった。




 ナガレンツ領方面に派遣された正統帝国軍の将軍があのミナレスであることは先述した。ミナレスに託された任務は単純であった。ナガレンツ領の兵を外に出さないことであり、領の出入り口である三つの入口を封鎖するように兵を配置すればよかったのだ。


 しかし、先のサラサ軍の戦いで惨めなまでに大敗したミナレスは色気を出した。


 『ナガレンツの兵は精強とはいえ小勢。我らでも勝てる』


 ナガレンツ領を制圧すれば、正統帝国にとって有利に働くし自分の名声も上がる。ミナレスはそう考えた。


 調べさせたところによると、ナガレンツ領の総動員兵力は約八百名(実際にはツエンによって千名に増えている)。それを三箇所の入口に配備せねばならないのだから、南方の攻め口はもっと少なくなる。ミナレスはそう判断し、ナガレンツ領を攻めるつもりでいた。


 だがら、シュルンがツエンの書状を持ってきても取り合わなかった。


 『もはや言葉を交わす時は過ぎた!今はただ剣を交えるだけだ!』


 ミナレスはツエンの書状を一読することなく、シュルンに突き返した。シュルンは失意のままマルイユに戻ってきた。


 「駄目であったか……」


 ツエンは腕を組み唸った。シュルンも無念そうに顔をゆがめている。


 「どうであろう、アヤン殿。私が領都に赴いて直接正統帝国の陣営に乗り込むというのは……」


 「お止めになった方がいいでしょう。正統帝国軍はナガレンツに攻め込む気満々です。ガーランド殿が行けば、景気づけに血祭りにあげられるだけです」


 「それほどに……」


 ツエンは自分の見込みが甘かったと悔いた。世の中には理を尽くして説けば道理を理解してくれる人間ばかりではないのだ。


 『だから戦争はなくならんのだ……』


 ツエンは諦めざるを得なかった。


 「アヤン殿。お手間を取らせました。これにてお別れいたします」


 「お役に立てず申し訳ありません。我らが言うには憚れますが、ご武運を」


 「かたじけない……」


 ツエンは心から感謝してシュルンに頭を下げた。

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