外伝Ⅰ 朝霧の記~その25~
武装中立。ナガレンツ領の方針はそう決定したが、新帝国と正統帝国が戦争状態になっていない以上、まだそのことを表沙汰にするわけにはいかなかった。まずは正統帝国の勅使に穏便にお帰りいただくことが先決であった。
翌日、ツエンを供に勅使に応対したのは老公ジビルであった。これには勅使タシルは困惑と猜疑の目を向けた。
「どうしたのだ?スレス殿はどうされたのだ?」
「スレスは昨晩より発熱があり、とても起き上がれる状態ではなく臥せっております。それ故、代わりに私が参上した次第でございます」
老公は如才なく頭を下げた。
「発熱とな?昨日のスレス殿はご健康そのものではなかったか?」
「不肖の息子でございます。元来病弱の身であり、勅使様を目の前にして緊張したようでございます」
老公は淀みなく答えた。無論、これは嘘であり、事前にツエンと打ち合わせてのことであった。
昨晩、ナガレンツ領の方針を決したスレスは、ツエンを伴って老公の下を訪れた。決した方針を報告するためであった。
「いかようなことになろうと構わん。ナガレンツの武人としての面子が立てばそれでいい。儂はお前らの方針に従う」
老公はそれだけ言った。
「つきましては老公にお願いがございます。明日の勅使への応対を老公にお願いしたいのです」
ツエンがそう申し出ると、スレスが振り返って不満そうな顔を向けた。
「ガーランド。私では力不足だと言うのか?」
「そうではありません、スレス様。スレス様と勅使は同年代。相手は同年代をいいことにスレス様に対して尊大に……要するになめてかかるでしょう。老公ならそうはいかず、こちらが主導権を握れます」
「しかし……」
スレスがまだ不満顔でいると、老公がにやっと笑った。
「それだけではあるまい、ガーランド。これは保険だな」
「保険?」
スレスが聞き返した。
「万が一……そう、本当に万が一の話だが、正統帝国とやらがビーロス王朝に勝利した時、言い訳が立つようにしているんだ。武装中立という方針は老公と家老の一人が勝手にやったことだという風にな。そうであろう、ガーランド」
スレスがはっと表情を改めた。そして自分の不明を悔いるかのように悲しげにツエンを見た。ツエンは黙って顔を伏せた。
「よかろう。老い先短い老躯だ。命など惜しくない。人生最後の大芝居といくか」
老公は嬉しそうに笑った。この分なら上手くいくだろうとツエンは思った。
老公を担ぎ出したのは正解だった。タシルは明らかに動揺していた。次に何を言うべきか言葉が見つからないのか、目を泳がしていた。
「早速出ございますが、勅状に対するご返答を致しますが、よろしいでしょうか?」
老公の方からあえて切り出した。これで会話の主導権を老公が握ったことになる。
「う、うむ……」
「そもそもマノー家は、その開祖をレオンナルド帝より遥か昔、トロウニー二世の御世にまで遡り、帝国の南部を騒がせた山賊の討伐の功により、現在の領地を与えられました。その功績とは山賊どもの首を……」
老公は滔々とマノー家の歴史を語り始めた。タシルが堪らず、待て待てと制止した。
「何を言っているのだ?」
「我がマノー家の帝国と帝室への赤心でございます」
「私には御家の歴史を語っているとしか思えんのだが……」
「我らがいかに帝国と帝室に尽くしていたかを語っているのです」
謹んでお聞きあれ、と老公は構わず話を続けた。タシルはうんざりとした顔のまま、話を聞き続けた。
『流石は老公。役者だ』
ツエンは感嘆しながら、付き合わされるタシルを多少気の毒に思った。
「かようにして帝国と帝室に忠誠を尽くしてきたマノー家としては、今回の事態に心を痛めております。従いましてマノー家としては帝国と帝室のためにより一層の努力をする所存であります」
「それは我ら正統帝国のために働くと言うことか?」
「申し上げたとおりでございます。フェドリー帝がご健勝であるためにも努力いたします」
老公はあえて正統帝国という文言を使わなかった。如何ようにも取れる内容であり、最後のフェドリー帝への件も、必ずしも正統帝国への参加を表明したものではなかった。フェドリー帝の地位と生命のためにビーロス王朝と交渉する余地があるという風にも言い訳をできるようにしてもいているのだ。
「ふ、ふむ。マノー家の赤心は分かった。しかし、その証を持ち帰らない限り、陛下もご納得されまい」
タシルをうまく騙すことができた。ここまでは計画通りである。
「それは人質ということでございますか?」
「うむ。マノー家の赤心を疑うわけではないが、武家の習慣としてな」
「左様でありましょう。しかし、我が子スレスには子はおろか妻もおりません。身内としては私のみでございます」
タシルは嫌な顔をした。老公が人質というのは堪ったものではないだろう。
「ナガレンツは冬は寒いので、老躯には堪えます。おお、ジェノイバならば暖かくてありがたいですな。喜んで参りますぞ」
それがいいそれがいい、と老公は手を打って喜んで見せた。
「待て待て……。老公はお年であろう。慣れぬ地での生活はお体にも障る。それには及ばぬ」
「左様でございますか……」
老公はわざとらしく残念がった。
「しかし、これは困った。忠誠の証を持って帰らねば、私も勅使としての役目を果たせぬ……」
「畏れながら勅使様。よろしいでありましょうか?」
ここでツエンが発言を求めた。これもすべて老公との打ち合わせどおりである。
「ご家老であったな?何か?」
「いかがでありましょう?先ほど老公が申したことを書面にて提出いたしましょう。誓書という形を取ればフェドリー帝もご納得されましょう」
「ふむ。それがいい」
タシルは折れた。老公との長いやり取りに辟易し、早々に話をまとめたかったのだろう。すべてツエンの思惑どおりとなった。
『まずは第一段階は上手くいったか』
ツエンはひとまず安堵しながらも、次なる手を打たなければならなかった。
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