外伝Ⅰ 朝霧の記~その14~

 「またしばらく留守にするぞ」


 その晩、家に戻ったツエンは、クノに言った。ツエンに酌をするクノは慣れてしまったのか表情一つ変えなかった。


 「またご遊学ですか?」


 クノは嫌味のつもりか冗談のつもりか、はたまた本気で訊いているのか、どうにも判然としなかった。


 「違う、戦をしに行く」


 「戦……」


 クノはその言葉を繰り返すと、くっと短く笑った。


 「何がおかしい?」


 「だって、あなたは戦場に行ったことはないのでしょう?」


 「言いやがる」


 確かにそのとおりだったので、ツエンとしても笑うしかなかった。


 「お前も知っているだろう。皇帝陛下と教会が争っているのを」


 「ええ、知っています。なんとも恐ろしい話です」


 「恐ろしいか?」


 「勿論じゃないですか?教会と争うなんて、天罰が下りますわよ。あなたは怖くないのですか?」


 「どうだろうな」


 実際、ツエンは恐ろしくもなかったし、教会に対する信仰心も希薄であった。


 不思議なもので、この当時の支配者階級に属していた者達は、その多くが教会に対する信仰心がかなり希薄であった。ツエンだけではなく、皇帝ジギアスも、サラサ・ビーロスも同様であった。これについては、後世の歴史家が様々な考察を行ったが、明快な回答を出せずにいた。しかし、後の帝国宰相テナル・ランフィードが面白い言葉を残している。


 『私もそうであるが、皇帝陛下サラサ・ビーロスも、現実的な手法で人民の為に政治を行ってきたから、信仰心というものは精神的に人民を支えるものだという認識があった。だからどうにも現実主義的で、自分自身が信仰心を持とうという気になれなかった』


 テナルの考察が正解かどうかは置くとしても、この時代の雰囲気を知るには充分であった。ツエンも、おおよそそれに近い感覚を持っていた。


 「普段から司祭の話もろくに聞かん俺だ。天帝様も俺のことなど信者とも思っておらんだろう」


 「しかし、戦である以上、お命も危のうございましょう」


 「それはそうだ。だが、まともな戦にはなるまい」


 ツエン達が辿り着く頃にはとっくに決着している可能性もある。皇帝と教会では動員できる戦力の差がありすぎる。皇帝側の鎧袖一触の勝利となるのは間違いなかった。


 「それならばお行きになる必要はありませんでしょう?」


 「まぁないだろうな。どうせまともな恩賞も出まい」


 皇帝は勝つ。しかし、教会領を押収するのは難しいであろう。教会が人民にとっての心の支えとなっている以上、これを完全に屈服させるのは困難であり、せいぜい教王や総司祭長の首を差し出す程度で終わり、教会領は安堵されるであろう。ツエンはそう睨んでいた。


 「それでお行きになると?」


 「行く。行かねば分からぬこともあるのだ」


 ツエンは詳細を話すつもりはなかったし、クノもさらには尋ねてこなかった。


 「不思議ですわね、あなたは。謹慎させられたと思ったら遊学して、帰ってきたら要職についてまたいなくなって、さらに出世していなくなって……。普通、偉くなるという人はもっと時間をかけてまじめにお仕事をするものと思っていましたが……」


 これにはツエンも笑わざるを得なかった。


 「はははっ。確かにそうだ。こんないい加減な男もいないだろう。だが、真面目でまともなやり方では乱世ではどうにもならんのだ」


 世の乱れの象徴であるツエンが世の乱れを肌身に感じに行く。これほど滑稽なこともあるまい。


 「まぁ、今回はすぐに帰ってくるさ」


 ツエンにとっての問題は、帰ってきてからであった。乱世の空気をナガレンツ領に持ち帰り、そこから挙国体制を作り出す。その目的に向っての思案も同時にこなさなければならなかった。

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