外伝Ⅰ 朝霧の記~その10~
急いでナガレンツ領に戻ったツエンは、やや拍子抜けした。老公が病に倒れたのは事実であったが、ツエンが領都ナオカに辿り着いた時には、すでに快癒していたのだった。
「快癒されたとなれば安心した。ナガレンツの武人としてご領主が危機の時に領内にいないとあっては恥だからな」
ナオカに戻ったその日、クノを相手に偽りのない安堵の言葉を漏らした。クノの手料理を突いていると、ナガレンツ領に帰ってきたという実感が湧いてくる。
『やはり俺はナガレンツの武人だな』
クノが作った料理はいずれもナガレンツ領の郷土料理であった。クワンガ領での食事も悪くなかったが、やはり故郷の飯の方が数倍上である。やはりアルベルトの誘いを受けないで正解であったと思った。
『ナガレンツの武人はマノー家とナガレンツの領民と風土の為に生きて死ぬしかないのだ』
我ながら生き辛い、わずらわしい人生であると思ったが、根っから染み付いてしまった郷土への愛情と武人としての死生観はどうしようもなかった。
「何ですか?お笑いになって。まさかジビル様が無事であったから、まだ遊学に出るとか仰るんじゃないでしょうね?」
クノが意地悪く訊いた。
「それもいいかもしれん。が、明日は家臣一同集まるようにというご沙汰だ。すべてはそれからだ」
ツエンは苦笑したが、もうナガレンツ領から出ることはあるまいと予感していた。
翌日。領都ナオカに滞在している家臣全てが領主の館に集められた。館には評議用の大広間はあったが、すべての家臣となると収まりきらず、廊下や窓の外にも家臣達が溢れていた。
ツエンがサダランを伴って大広間に到着した頃にはすでに中に入れない状態であった。
「いかがしましょう、義兄上」
「声さえ聞こえばいいさ」
そう言いながらもツエンは中の様子を伺った。すでに三家老が難しい顔をして居並んでいた。
「それにしても家臣全員を集めるなんてどういうことでしょうか?」
何が行われるかまでは知らされていなかった。だから実は老公が亡くなっているのではないか、と噂する者もいた。
「いずれ分かるさ」
サダランにはそう言いながらも、ツエンにはおおよそ予想がついていた。
ややあって老公が姿を見せた。その後には嫡子であるスレス・マノーが付き従っていた。スレスが公の場に姿を見せるのは非常に珍しかった。
スレスは涼やかな印象を持った若者で、父である老公とは正反対の気性を持ち合わせていた。それもそのはずでスレスは養子であった。ナガレンツ領と南で接しているエイバー領カラハス家の次男坊で、実子のいなかったジビルに請われてマノー家にやってきたのだった。
スレスは非常に沈着で、喜怒哀楽をほとんど浮かべず、家臣達には微笑をもって応対していた。家臣からも次期領主として申し分ないと思われていた。
「皆、ご苦労である」
着席した老公が枯れた声で言った。ややほっそりとした印象を持ったのは、やはり病のためであろうか。
「病で一ヶ月ほど臥せっていて迷惑をかけた。おかげでなんとか直ったが、それでもどうにも体調が元に戻らん」
騒がしかった大広間がしんと静まり返る。誰しもが老公の次の一言一句を待っているようであった。
「そこでだ。儂もいい年だ。領主の座をスレスに譲ろうと思う」
静まり返っていた大広間がわずかにざわついた。
「義兄上!家督をスレス様に譲られると……」
サダランも驚いていたようだが、ツエンは無言で頷いた。そういう用件であろうことは薄々察していた。
「以後、スレスの言がナガレンツの総意である。そう心得よ」
ははっ、と家臣一同畏まった。
「これでナガレンツに新しい風が吹きますかね?」
サダランが嬉しそうに言ったが、ツエンは何も言わずに頭だけを垂れた。
そのさらに翌日。新領主スレスの名の下で新たな閣僚人事が発表された。といっても、三家老はそのまま留任された。いくら領主とはいえ、領内で権勢を誇る三家老の首を簡単に挿げ替えることはできなかった。
しかし、一方でその他の部分ではスレスは大胆な人事抜擢を行った。そのうちのひとつがツエンの復職であった。しかも、民生局南部方面監理長という重職であった。財務局の平官吏でしかなかった以前の役職を考えれば、異例中の異例の大抜擢であった。
民生局は領内の町村を監督する役所で、あらゆる行政庁の中で財務局に並ぶ重要な役割を果たしていた。南部方面監理官は、ナガレンツ領の南部を総括することになる。
「これはスレス様が義兄上のことをお認めになったということですよ」
義弟のサダランは我事のように喜んだが、ツエンは冷静であった。
『なるほど南部か。スレス様は俺を試そうとしているな』
南部はナガレンツ領内でも比較的治安が悪く、治めるのが難しいとされてきた。実は前任の長が複数の村の住民と揉め事を起こし、問題となっていた。それをいかに沈静化させるか。ツエンの手腕が問われるところである。
「サダラン。俺と一緒に来るかね?」
監理官ほどの重職になると下僚を自由な裁量で選ぶことができる。ツエンが縦横無尽に力を発揮するには、この義弟の事務処理能力が必要であった。
「義兄上のためなら」
サダランは躊躇うことなく快諾した。
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