外伝Ⅰ 朝霧の記~その9~

 「水臭いじゃないか。クワンガに来ているのなら、一言でもかけてくれればよかったのに」


 その夜、ツエンとアルベルトはクスハルの酒場で酒を酌み交わした。ツエンが留学中、何度も二人で飲んだくれた思いでの酒場である。


 「領主様にお会いするのが畏れ多かったんだよ」


 よく言うぜ、とアルベルトはからからと笑った。しかし、アルベルトに対して気後れがあったのは確かであった。いくら友誼があるとはいえ、無役でふらふらとしてる身が領主に堂々と会いに行くというのはどうにも気が引けていた。


 「先生から連絡を貰って、いつになったら尋ねてくるか待っていたんだぜ。なかなか来ないから会いに来てやった」


 「そいつはどうも」


 領主自ら来てくれるのならばツエンとしても気後れすることもなかった。


 六年前、二人はラブールの塾で出会った。


 この時、アルベルトはまだ十六歳の少年で、一方のツエンは三十手前の青年であった。どういう訳か馬が合い、話をし、お互いの思想や理想をぶつけ合うこともしばしばあった。


 アルベルトは当時は領主の子息であり、ツエンは単なる官吏でしかない。だが、年齢的にはツエンの方が年長で、ラブールの塾に入ってきたのもツエンの方が先、つまり先輩であった。身分的にはアルベルトの方が上位であり、年齢的にはツエンの方が上という奇妙な関係であった。


 当初、ツエンはアルベルトに敬意を払い、領主の子息という態度で接してきていた。これに対してアルベルトはこう提案した。


 『俺の方が身分では上らしいが、年齢ではツエンの方が上ならちょうどチャラじゃないか。俺はツエンと呼ぶから、お前は俺のことをアルと呼んでくれ』


 要するにお互い上の部分があるのなら相殺して対等になろう、ということであった。アルベルトにそう言われればツエンとしては異論がなかった。


 「それよりもいいのか?領主様になって忙しいんじゃないのか?」


 「俺の家臣団は優秀だからな。遊びまわってもなんとかやれている」


 「お前も優秀だろう」


 事実としてアルベルトは有能な領主であった。神託戦争において経済的に荒廃したクワンガ領を瞬く間に立て直したのは他ならぬアルベルトであり、そのことによって皇帝ジギアスを悔しがらせたのは有名な話である。


 「簡単なことだ。先生の教えを忠実に実行したまでのことだ」


 アルベルトが取った政策は実に明瞭であった。まずシュベール家が所蔵していた宝物を悉く売り払い、それを元手にして開墾などを奨励し、そこでできた農作物を商人達に競争させて全国へ売りさばいたのだ。クワンガ領の経済は徐々に上向きになり、留学してくる人々も増えてきていた。


 『やはり領主というのは羨ましい……』


 領主であれば、自分の思うように政治が行える。ツエンが理想描きながらも、その地位に立とうと四苦八苦している。対してアルベルトは領主として自由に己の才幹を振るえる。ツエンからすれば羨ましい限りであった。


 「で、俺の授業はいつから聞いていたんだ?」


 「かなり最初のほうからだ。それに気がつかなかったと見えると、相当熱が籠もっていたな」


 うるせえよ、とツエンは気恥ずかしくなって悪態をついた。


 「でもあれは授業というよりも、自らの身分を嘆く恨み節みたいだったな」


 「否定はしないさ。ただ恨むとすれば、我が身の非才さだ」


 「非才……。俺はそう思わん。天下に俺と同等の才幹を持っているとすれば、お前しかないと思っている」


 「世辞でも嬉しいさ」


 「世辞ではない。本気だ。お前は、己の力を発揮する場所に恵まれていないだけだ」


 アルベルトがツエンの顔を覗きこんできた。


 「ツエン。俺のところに来い。すぐにでも家老に抜擢するぞ」


 ツエンはアルベルトを見返した。アルベルトの眼差しは真剣で冗談を言っているようではなかった。


 「どうせ世は乱れる。お前となら天下を得ることも容易い。そう思わんか?」


 神託戦争が終了してから半年ほどしか経っていないこの時期、アルベルトはサラサ・ビールスと出会っていない。自らの才気こそが天下を覆うと考えており、わずかながらも帝位に対する野心を持ち合わせていた。


 「おいおい、俺はナガレンツの武人だぜ。帝室への忠誠心深い我らにそんなことを言っていいのか?」


 ツエンはそう言ってはぐらかした。そうでもしないと、この魅了的な誘惑に負けそうであった。


 「俺は本気だぜ。どうやら我が家は皇統に連なるらしい。大それた話ではないと思うがな。それにマノー家の老人には悪いが、お前のことを正しく評価できるのは俺だけだと思っている」


 友人から送られる最大級の賛辞であった。ありがたいと思いつつも、それでもツエンはナガレンツの武人であった。その枠組みから出ることは、武人としての倫理が許さなかった。


 「俺はナガレンツの武人だ。それ以上でもそれ以下でもない」


 ツエンがそういい切ると、アルベルトはそれ以上は誘ってこなかった。代わりに乾いたツエンの杯に酒を注いでくれた。その後も度々アルベルトと酒を酌み交わす機会があったが、配下に加えようとする誘いは一度もなかった。




 当初、ツエンは半年クスハルに滞在するつもりでいた。しかし、実際には二ヶ月ほどでクスハルを去った。老公―ジビル・マノーが病に倒れた、という報せを受けたからであった。


 見送ってくれたのはラブールとその門下生だけであった。アルベルトには連絡は入れたが、その応答を待つことなく、慌しくナガレンツ領に帰っていった。


 「私は生きているうちにツエンを見るのはこれが最後になるだろう」


 ラブールがそう呟いた、と門人の一人が証言している。


 「先生、縁起でもありません。先生には長生きしてまだまだ我々に色々と教えていただきませんと」


 その門人が言うと、ラブールは嘆息した。


 「そうであるならば、ツエンにとっては幸せであったろう。不幸にして乱世だ。あいつは乱世に平穏に生きられる男ではない」


 この門人がラブールの言葉の意味を知るのはもう少し後のことであった。

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