外伝Ⅰ 朝霧の記~その2~
世上では神託戦争が進行中であった。
教会の巫女レレン・セントレスの悪夢から端を発したこの戦争は、帝国を二分する戦争となっていた。ナガレンツ領を有しているマノー家は代々、帝室に対して高い忠誠心を持っている家なので、皇帝側に属することは当然であった。領主も家臣達も異論を持つ者は誰一人いなかった。唯一、ツエンだけが例外であった。
ナガレンツ領領主、ジビル・マノーが皇帝派として神託戦争に参加する旨を発表した時、一人異論を唱えた。
『このような戦争に参加するなどもっての他!まったくの無駄である!』
ツエンは神託戦争に参加することを諌める上奏文執筆し、領主と家老に提出した。ツエンは、神託戦争を帝室の内部分裂騒動に過ぎないとして、参加することに利点がないことを説いた。
『まずこの戦争は戦力的には五分と五分。いずれが勝つとも知れません。どちらかが勝つとしても、一方が圧倒的強さで勝つとは到底思えず、教会の仲裁による痛み分けとなりましょう。そうなれば、勝者が敗者の領地没収など思うままにならず、奉公に対する恩賞など望めないでしょう。我らは戦争において人材、財政的に負担を強いられながらも、その損失に似合うだけの利益を得ることは叶わないでしょう』
なので神託戦争に参加するのは不可だとツエンは激越な文章をもって訴えた。当然ながらというべきか、この上奏文は受け入れらるはずもなく、逆に帝室と領主に対する不敬と見做され、謹慎処分となった。それが今のツエンの状況であった。
「誰しもが皇帝派の有利と見ていましたが、なかなかどうしてアドリアン派もやるもので、数度にわたる会戦も一進一退の状況。どうにも泥沼になりそうですな」
サダランは粥を啜りながら、端的に神託戦争の進行状況を語った。ツエンは驚きもしなかった。この結果はツエンにしてみれば当然の帰結であった。
「それで領都の様子は?」
ツエンは焼いた川魚の身をむしり一口食べた。あまり美味いものではなかった。
「家老衆は表立っては強気でいますがね。内実、戦々恐々としているようですよ。ゲンビル様などは主旨変えして今からでもアドリアン派にわたりをつけられないかと憚らず言っているようですよ」
ゲンビルとは、ナガレンツ領の家老衆―現在三人が家老を務めているの三家老と呼ばれている―の一人であるマシュー・ゲンビルのことである。日和見こそが政治であることを真情にしている、家柄と年功で現在の地位に至ったような男である。
「老公のご様子は?」
老公とは、ナガレンツ領領主ジビル・マノーのことである。家臣達は敬意を込めて『老公』と呼んでいた。気性の激しい老人で、ツエンは度々この老人の勘気をこうむっていた。
「連日、三家老を招いて対策を協議しているようです。義兄上の意見を採用していればこのようなことにはならなかったのに……」
「そんなものさ」
サダランは我が事のように悔しがったが、当のツエンは素っ気無かった。
「我ら心ある官吏達は示し合わせて義兄上の復帰を願い出ております。老公も三家老も、事態が窮すれば義兄上の力を必要とするはずです」
「サダラン、余計な真似をするな」
ツエンは、不機嫌そうに義弟を睨んだ。
「どうしてですか?」
「それが分からぬうちは余計な真似をするな」
サダランがツエンの復帰を三家老に働きかければ、それがツエンの思惟であると思われてしまう。そうではなく、老公と三家老が本当に切実にツエンの存在を必要とする瞬間を待つべきなのである。
「しかし、私などは義兄上のご意見は非常に理に適っていると思うのですが、どうしてそれが理解できない者もいるのでしょうか?」
サダランは叱責されたことを忘れたかのように、すぐに話を変えた。
「それは難しいことではない。政治というのは理だけで動くものではないということだ」
寧ろ理で動くことの方が珍しい、とツエンは付け加えた。
「俺が神託戦争の不参加を主張した時、老公は何と言ったと思う?『代々帝室のご寵愛を受けてきたマノー家が帝室のために戦ができぬとは何事か!それでも武人か!』と言われた。これは要するに情だ。理ではない」
「確かにナガレンツ領で生きる我らは武人であることを誇りとしてきました。それが我が領の風でありましょう。戦を恐れるわけにもいきますまい」
「そうだ。そこが難しい。俺も政治とは理と情の均衡を取ることが肝要であると思っている。ここで我らが日和って帝室を裏切ったり、不戦を決め込んでは長年築いてきた良き風潮が崩れてしまう」
「それでは義兄上は参戦に賛成のようですが……」
「だから判断が難しいのだ」
ツエンは苦りきった顔をした。武人であるべき矜持と政治家としての冷徹な理。この二つが相容れないから政治は難しく、ツエンもこうして軟禁を余儀なくされているのだ。
「もし我らが帝室にそれほど忠誠心を持っていない場所に生まれていれば、それほど難しいことはない。戦争の趨勢を見守って、大勢が決した段階で勝者につけばいいのだからな。それが許されぬのが我らナガレンツの武人だ」
ツエンはナガレンツ領に愛着があるし、帝室への忠誠心を初恋の乙女のような一途さで貫いているマノー家に仕えていることを誇りに思っている。
「義兄上は複雑な人だなぁ」
サダランが間の抜けた声で言った。自分でもそう思っていたのでツエンは黙って茶を一口飲んだ。
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