外伝Ⅰ 朝霧の記

外伝Ⅰ 朝霧の記~その1~

 まだ朝霧が残る刻限である。


 底の浅い川の近くに一軒の粗末な小屋が建っていた。まことに粗末な小屋で板葺きの平屋。外観を見れば、人ひとりが住むか住めぬか際どい小ささであった。


 その小屋の引き戸ががたがたと音を立てて開かれた。小屋から出てきたのは男であった。年の頃は三十半ばか四十手前であろうか。男はどちらに行こうかと思案するように大きな目をぎょろりと左右に動かした。が、結局は正面の河原へと下りていった。右手には釣竿、左手には魚籠を持っている。


 男は慣れた足取り土手を下りていくと、川縁の岩に座り釣り糸を垂れた。今日の朝食を調達するつもりであった。


 半時ほど経った。その間釣り糸はぴくりとも動かなかった。不漁なのは昨日も同じであったが、男はまるで苦にしている様子はなかった。寧ろ様々なことを思案するにはちょうどいい時間であった。


 『人の世は釣りのようなものかもしれない』


 男―ツエン・ガーランド―は、まるで動くことのない釣り糸を凝視しながら、人生について哲学的なことを考えていた。


 『釣り糸を垂れ、魚が食いついてくる時を只管待つ。人も飛躍する時を只管待ち、その瞬間が来た時に逃さず竿を引き上げなければならない』


 俺の人生もそうだ、とツエンは、我が人生を振り返ってそう思った。


 これまでの人生、何度も飛躍する好機が訪れた。その度にツエンは躊躇うことなく竿を引き上げたのだが、餌だけを食われ魚を釣り上げることができなかった。その結果が今の生活である。


 『どうやら俺は釣りが下手らしい』


 ツエンは野心的であった。代々ナガレンツ領の官吏を務めているガーランド家に生まれ、己も漏れずに官吏となったツエンは、自分の才能を官吏程度で収まるものではないと規定していた。


 『家老、いや家老すらも俺にとっては小さいかもしれない』


 家老とは領主の下で領内の政治を総覧する役職である。ナガレンツ領では通常三人から四人おり、ほぼ門閥によって独占されていた。例外的に優秀な官吏が家老に抜擢される場合もあり、ガーランド家でも数代前に家老を輩出していた。ツエンの父などはそれを誇りにし自慢話の種にしていたが、ツエンなどはそれが堪らなく嫌であった。


 『どうして己が家老になろうと思わないのか?』


 男児に生まれ、官吏となった以上、その最高地位を目指そうとしないのだろうか。ツエンは不思議であり、腹立たしかった。


 『だが、俺は違う』


 家老になろうという気概があるし、才能もある。そう本気で思っていて、そうあるべきだと思っていた。しかし、実際のツエンはこのような田舎で謹慎の身であった。


 『その傲慢なところがお前の悪いところだ』


 ツエンの父イニグスは、そう諭したことがあった。


 『自尊心の強さと言い換えてもいい。その性格は清流を堰き止める巨石のようなものだ。人の世に出た時、苦労するぞ』


 温和と篤実さだけが取り柄で、大過なく官吏としての人生を全うしたイニグスらしい説教だった。そのような父を尊敬しつつも、その意見を素直に聞くつもりなかった。


 『俺は俺だ。それに乱世だぜ』


 ツエンはつくづく思う。時代に求められているのは篤実な官吏ではなく、困難を突破する胆力を持った政治家である。


 『このナガレンツ領では俺ぐらいだろう』


 釣り糸がぴくりと動いた。ツエンは竿を引いた。釣針には魚は掛かっていなかった。


 「餌だけ持っていかれたか……」


 ツエンは再び餌を針先に着け、川面に落とした。しかし、結局一刻ほど粘ってみたが、川魚一匹釣り上げるだけで終わった。


 ツエンが釣りを終えて戻ると、小屋の前に一人の若者が立っていた。ツエンの姿を見とめると、


 「義兄上!」


 と声を張り上げた。ツエンの妹婿、義理の弟にあたるサダラン・ニースビルであった。


 「おお、来てたのか。朝早く暇人だな」


 「義兄上ほど暇じゃありませんよ」


 サダランは若いながらも有能な官吏であった。やや調子がよく粗忽なところがあるが、官吏に必要な事務処理については、ツエンも一目置いていた。三日に一度の頻度でツエンの所に訪れ、領都での様子などを伝えてくれていた。


 「義姉上から着替えと差し入れです。義兄上が好きな干し肉ですよ」


 「そうかね」


 ツエンは素っ気無く応じた。妻のことは、どうも照れ臭かった。


 「それよりも中で話そう。朝飯もまだなんだろう?領都での話を聞かせてくれ。どうもここにいると情報に疎くなる」


 「勿論ですよ。どうも義兄上の言うとおりになってきました」


 サダランが実に嬉しそうに言った。そういうところが粗忽なのだ、とツエンは思った。

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