エスティナ湖の戦い④

 東へと進軍するサラサ軍に対して、ガローリーの皇帝軍はエスティナ湖周辺で迎え撃つ体勢を整えていた。


 『敵は攻めてこないか……』


 サラサはひとまず安堵した。相手から攻めてきた場合、数で劣る自軍はどうしても守勢に立たされ、相手を徹底的に打ち破るのが困難になってくる。だから、この状況はサラサにとっては僥倖であった。


 「第一軍を右翼に、第二軍を左翼に展開する」


 敵と遭遇する前にしてサラサは命じた。それまで縦列陣だったサラサ軍は南北に横並びとなった。南から第一軍、第二軍と並び、その中央にサラサは本営を置いた。巨岩を薄い皮一枚で覆おうとしているのだ。


 戦術としてはこれほどの愚策はない。サラサはそう思っていた。包囲殲滅戦は、相手と同等の戦力か、それ以上の数を揃えるのが常套であった。しかし、サラサはあえてその愚策を行うことにした。相手から決定的勝利をもぎ取るにはそれしかないと判断したのだった。


 日輪の月八日正午ごろ、両軍は戦闘状態に入った。最初に会敵したのは第一軍であった。第一軍はジンが指揮するカランブルの民軍が主体となっている。士気こそ高いが軍としての練度は低い。加えて数で劣っているため、瞬く間に劣勢に立たされた。ジンからは矢継ぎ早に苦戦の知らせと、増援を要請がもたらされてきた。


 『やはりな……』


 序盤の苦戦は想定内であった。しかし、実際にその知らせを聞くと、平常心ではいられなかった。


 「ネグサスに連絡を入れて第二軍の一部を第一軍の補填に当てろ」


 「ですが、それでは第二軍が薄くなってしまいます」


 ミラの指摘は尤もであった。すでに第二軍も敵と交戦状態に入っている。そこから兵力を割いて移動させるのは、逆に第二軍の危機を招く恐れもある。


 「分かっている。それでも第一軍を崩壊させるわけにはいかない。急がせろ」


 先述したとおり、第一軍の主力はカランブルの民兵である。ここが脆くも崩壊すれば、彼らは方々に逃げ出し、二度と軍隊としての様相をなさないだろう。サラサはそのことを危惧していた。


 サラサの伝令が第二軍のネグサスの元に飛んだ。ネグサスは命令書を受けると、表情一つ変えずに手持ちの兵力二百を第一軍に移動させた。これが思わぬ効果を生んだ。


 援軍を得て盛り返した第一軍が猛然と反撃を開始したのである。敵軍のガローリーは、サラサ軍に予備兵力があったのだと勘違いし、この部分の部隊に後退を命じたのである。


 「敵は怯んだ!かかれ!」


 ジンはそれを見逃さなかった。全軍に突撃を命じ追撃させた。しかし、この追撃は不徹底で、それほどの効果を得られなかった。大打撃を与えるには、やはり兵力が少なすぎたのだった。


 こうして第一日目は、どちらも決定打を欠いたまま日が暮れていった。




 第二日目。払暁より両軍は動き出した。相変わらずサラサ軍右翼の行動は不活発で、押し込まれることも度々であった。


 それに引き換え左翼―第二軍は善戦していた。昨日第一軍に派遣した部隊を欠いたままの状態であったが、敵軍の猛攻を数度にわたり押し返していていた。


 この状況に皇帝軍のガローリーは困惑していた。


 『敵の主力は、我が左翼ではないのか?』


 という疑念をガローリーは持った。当初ガローリーは、サラサ軍の主力は自軍の左翼側だと思っていた。サラサ自身、どちらかを主力に据えようと考えていたわけではないが、兵力を第一軍に集中させていたため、ガローリーはそう解釈したのであった。


 ガローリーは文官ではあったが、カランブル駐留軍に武官の上級指揮官が不在であったため、自らが全ての指揮を取らねばならなかった。もし彼が武官、あるいは文官であっても兵理に明るければ、包囲するサラサ軍の薄さに気づき、左翼右翼どちらかの一点突破を企図したかもしれない。だが、文官であるガローリーは、敵を攻めるという意思に欠き、兎に角敵の攻撃を凌ぎきるということに終始したため、そのような錯誤をしてしまったのだ。


 『右翼に援軍を送り、敵の攻撃を凌げ』


 ガローリーがそう命じたため、サラサ軍第二軍の負荷はさらに増大した。


 伝令より敵軍のその動きを知ったサラサは、舌打ちをし、わずかに動揺した。


 『我ながらまずい手を打ったか……』


 第二軍から戦力を割いて第一軍に援軍を回した件である。これで左翼の第二軍が崩壊すれば、サラサ軍は敵に包囲殲滅されてしまう。


 しかし、第二軍は凌ぎきった。敵の猛攻を何度もかわし、攻撃することを断念させたのであった。これはネグサスの指揮の良さもさることながら、敵の攻勢も不徹底であったためでもあった。


 「流石はアルベルトが推挙しただけのことはある。ネグサスはやる」


 サラサはそう賛辞を送ったが、状況が好転したわけではなかった。第一軍が押され続け、総司令部にも戦場の喧騒が聞こえるようになっていた。


 「サラサ様、司令部を後方に下げましょう。危険です」


 ミラがそう進言してきたが、サラサは無視した。ここで司令部を下げようでは、士気に影響する。


 「サラサ様、危険です」


 「危険なものか!前線では多くの兵が奮闘しているのに司令官が引いてどうする!」


 寧ろ前線だ!とサラサは叫び、席を立った。馬を用意させ、前線に出ようとした。


 「サラサ様!」


 ミラが袖を引っ張ったが、サラサは構わず馬に乗った。


 『こうなったら冷静な判断は無用だ!逆上するのみ』


 サラサだけではなく全軍が逆上し、狂ったように攻めるしかない。攻めて、敵の攻撃に耐え、ジロンが敵の後背を強襲するのを待つしかなかった。

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