エスティナ湖の戦い⑤

 サラサは馬を駆り、第一軍の司令部を訪れた。


 「サラサ様!」


 ジンが馬を下りようとしたが、サラサは手でそれを制した。


 「苦戦しているな」


 「申し訳ありません。敵の陣容は厚いようで」


 「確かにな。でも、悠長なことは言ってられんぞ」


 「はっ」


 ジンは馬を進めた。


 「聴け!サラサ様自ら督励に来られたぞ!御前で醜態をさらすな!」


 ジンが前線に響き渡る大音声で叫んだ。この状況になって打てる手と言えば、司令官が前線に出て兵卒を鼓舞するしかなかった。ジンも明敏にそのことを察していた。


 効果は抜群であった。もともと民兵の中にはサラサを神格化している者も少なくない。彼らにしてみれば、必勝の女神が降臨したかのようであり、その神威は計り知れなかった。


 「サラサ様だぞ!」


 「サラサ様の面前で情けないまねはできないぞ!」


 「かかれぇ!」


 それまで引き気味だった兵卒は、一転して攻勢に出た。弓兵は雨のように矢を射続け、剣を取る兵は突撃を繰り返した。それまで攻め続けていた敵は守勢に回り、度々突き崩されていった。


 『潮目が来た……』


 戦場のおける流れの変化というものにサラサは敏感であった。それはまるで練達の老将のようであり、まさに天賦の才能であるとしか言いようがなかった。


 「狼煙を上げろ!ジロンに強襲させる」


 サラサは命じた。サラサの計算では、そろそろ先行したジロン隊がエスティナ湖を迂回し、敵の後背に達している頃である。


 「全軍突撃!」


 サラサに躊躇いはなかった。第一軍、第二軍ともに敵軍を包囲すべく前進行動を開始した。サラサ自ら馬に乗り、敵に向って前進した。当然ながら兵士達は我先にと駆け出して言った。


 これに敵は動揺した。一時押し込んでいた敵が猛烈な反撃に転じてきたのである。


 『敵にどれほどの予備兵力があるのか!』


 一番動揺したのはガローリーであった。敵の主力が自軍の左翼―サラサ軍の第一軍―だと思い始めたのだ。ガローリーは慌てて左翼を補強するために右翼から戦力を割いて補填させた。


 これが失敗であった。敵の移動を察知したネグサスが果敢な突撃を繰り返し、薄くなった敵軍を突破したのであった。ガローリー軍の右翼は各所で寸断された。そこへさらに後背に回り込んでいたジロン部隊がガローリー軍右翼に殺到し、これを壊滅させた。


 「ジロン様。お疲れ様でした」


 「ふう。年を取った人間がやることではありませんな」


 ネグサスとそのような会話をしたジロンではあったが、顔に疲れの色はなかった。


 「さて、悠長に休んではいられんな。追撃に参りましょう、ネグサス殿」


 「承知」


 ジロンとネグサスは合流して南下を開始した。




 ガローリー軍はすでに風前の灯となっていた。ガローリー軍右翼はすでに軍事上消滅しており、左翼は包囲され集中攻撃を受けていた。


 厳密に言えば半包囲であった。サラサの戦術の大原則として敵に逃げ道を作っておくというものがある。完全包囲して窮鼠が猫を噛む事態を避けるためであった。今回もそのようにしておいた。


 しかし、包囲の開けた先にはエスティナ湖があった。逃げる場合、エスティナ湖を行かねばならない。ガローリーは軍を収容する船など用意していなかった。つまり、軍としての逃げ道はなかったのだ。


 が、僅かながら荷物運搬用の小船が数隻あった。ガローリーは、司令部から煙のように消え、軍を置き去りにして単身運搬船で逃げ出したのだった。


 それですべてが終わったといっていい。総司令が戦場から単身逃げ出しことにより、ガローリー軍は降伏した。


 降伏の際にひと悶着あった。ガローリーの次席を担う文官と将兵の間で揉めたのであった。


 『我らは皇帝陛下の御為に出撃した!それにも関わらず、司令官が逃げ出すとはどういうことだ!』


 将兵の多くはエストヘブン領民である。皇帝のエストヘブン領での仕置きに必ずしも納得し服従しているものではなかった。それでも彼らが戦場に出たのは、皇帝という絶対権力に逆らえぬからであった。しかし、その絶対権力者の名代というべきガローリーは、多くの兵を見捨てて逃げたのである。抑えてきた感情が爆発しても無理のないことであった。


 「そんなこと私の知ったことか!第一、貴様らがだらしないから負けてガローリーも逃げ出したのではないか!グダグダ言っている暇があったら、私が逃げる時間を稼げ!」


 この次席の文官も皇帝の権威を過信し、居丈高に振舞いすぎた。彼の言動は将兵達の反感を買い、ついには暴発した。将兵達はこの次席の首を刎ね、それを手土産にサラサ軍に降伏したのである。


 「我らはそもそもエストヘブンの領民です。皇帝の命令に従っていたのは、そうせねば我らが生きていけないからです。ですが、今ここでサラサ様がエストヘブンの新しい道を開こうとしておられます。ぜひ、我らも軍勢にお加えください」


 降伏した将兵の一人がそうサラサに言上した。サラサは多少複雑な心境になりながらも、これを許した。


 後世、エスティナ湖の戦いと言われる一連の戦闘は、こうしてサラサ軍の勝利に終わった。

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