エスティナ湖の戦い

エスティナ湖の戦い①

 カランブルとコーラルルージュでの変事に接した皇帝ジギアスは、ルーティエ以上に鈍感で楽観的であった。と言うよりも彼はそれどころではなかったのだ。


 この時期ジギアスは、帝国北東部にあるソーリンドル領の内紛に首を突っ込んでいた。若い領主とその叔父が対立し、家臣団を二分した対立が続いていた。ジギアスはこれに介入し、出兵しようと考えていた矢先であった。


 「サラサ・ビーロスとは誰だ?」


 国務卿レスナンがコーラルルージュでの凶事を報告すると、ジギアスはそう返した。


 「お忘れですか?ゼナルド・ビーロスの娘です」


 「ああ。ふ~ん、そんな奴がいたのか」


 ジギアスは、ビーロス家の娘の罪科を赦し、後宮に入れてやろうと以前に考えていたことをすっかりと忘れていた。多忙な皇帝にとってはその程度の認識であった。


 「いくつだ?」


 「確か十四歳かと」


 「どうせ担ぎ出されたんだろう。哀れな奴だ」


 ジギアスがそう思うのも無理もなかった。わずか十四歳の少女が自ら采配を振るっているとは常識的には考えられないことであった。


 「如何致しましょう?」


 「エストブルクに援軍を送れ。ルーティエなら上手くやるだろう」


 「御意にございます」


 「そんなことよりもソーリンドルのことだ。双方から援助の要請が来ているのだろう?」


 「左様です。双方とも相手に非があり、自分に味方して欲しいと申してきております」


 「ふむ」


 ジギアスの頭の中にはすでにサラサの名前は抜け落ちていた。ソーリンドル領の内紛でどちらに味方すべきか、それだけを考えていた。


 『確か叔父のベルツハイマーには娘がいたな……』


 美女と聞いている。そもそもこの領の内紛は、叔父であるベルツハイマーが若き領主に娘を娶らせようとして拒否されたことに始まる。領主からすれば、娘を娶ることで叔父の傀儡になることを避けたのだろうが、勿体無い話である。


 『美女であるならば好きなだけ抱いて、傀儡にならぬように上手くやればいいだけだろうに』


 そう考えると領主は無能であろう。だとすれば、領主側を助けてやる必要はないし、ベルツハイマーに味方すれば娘も手に入れられるかもしれない。


 「ベルツハイマーに手を貸してやろう。出陣するぞ」


 ジギアスは判断を下した。彼にとっては自画自賛したくなる賢明な判断であったが、この判断ほどサラサに利するものはなかった。




 「陛下直々に来てくださらないのか……」


 ジギアスから援軍を送る旨の連絡を受けたルーティエは、やや失望した。自分が頼めばジギアスが飛んで駆けつけてくれるものとばかり思っていた。


 それでも援軍はありがたかった。戦において数の優位が重要であることは、文官であるルーティエも理解していた。


 「これでガローリーも心置きなく進発できるでしょう」


 だが、この時点でもまだルーティエは、反乱軍が一気にエストブルクを攻めてくるという虚言に支配されていた。折角の援軍を反乱軍鎮圧に使わず、エストブルクの防衛に回すことにしたのだった。戦争における数の優位性というものを知悉しながらも、戦力の小出しという戦術上の愚を犯したのは、やはり彼女が武人ではなかったからであろう。


 「早々に反乱を鎮圧せねば、税収が滞る。その分の補填は、きっちりとカランブルの馬鹿ども支払わせてやるないと……」


 彼女の関心は、もはや反乱鎮圧後の処理に向っていた。自軍が、ガローリーが勝つと信じて疑っていなかった。

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