総本山エメランス③

 「ひどく寒くなってきたな……」


 同じく総本山エメランスの一角で、寒さに体を震わしている老体がいた。暖炉の前に陣取り茶を啜る姿は、法衣さえ着ていなければ、どこかの農夫と見間違えるほどに穏やかなで素朴な表情をしていた。余人からすれば、とても教王に次ぐ総司祭長という身分にある者とは思えないだろう。


 「お寒いですか?もっと薪を持ってきましょうか?」


 副官のスーランがすかさず声を掛ける。総司祭長アルスマーン・ミサリオはちょっと振り返り、人懐っこい笑顔をスーランに向けた。


 「ふむ。そうしてもらえると助かる。どうも年を取ると堪え性がなくなって困るでな」


 「畏まりました」


 スーランが部屋の外で控えていた従卒に薪を持ってくるように声を掛けた。小気味のいい返事をした従卒が駆け出していく足音が聞こえた。


 「やはり年を取ると人間は駄目になるな。耄碌してくるし、人を使うことに慣れてしまう。昔は薪など自分で取ってきて火の中に投げ入れたもんだ」


 「ミサリオ様にもそのようなことが……」


 スーランが不思議そうに言った。


 「おいおい、私が生まれてこの方、ずっとこんな老人で総司祭長だったわけではないぞ。若い頃はこのエメランスで長く従卒を勤めたものだ。今はそれほどでもないが、昔の従卒というのは奴隷のように扱われたものだ。だから私はどんなに偉くなっても自分のことは自分でやろうと決めたものだ。しかし、肉体的にも身分的にもそれが叶わなくなってしまった」


 年を取るというものは人をつまらなくするものだ、と呟いて、アルスマーンは温くなってしまったお茶を一気に飲み干した。


 「しかし、妙な言い方ではありますが、人々に傅かれるのも、総司祭長のお仕事いうものでありましょう」


 スーランがお茶を注ごうとしたので、アルスマーンは手で制した。


 「権力組織としてはそういう考えも正しかろう。しかし、教会は信仰の場だ。元来、天帝様の下では身分などないはずだ。祈りに対しては誰しもが平等で、恩恵も平等に与えられてしかるべきなのだ」


 スーランは自分が怒られたと思ったのか申し訳なさそうな顔をした。そういえばスーランは、さる貴族の子弟だと聞いている。おそらくは従卒の経験などないに違いない。素直で優秀な男であるが、あまり下々の人間の苦労など理解できないのだろう。


 「確かに神託戦争以来、どうにも教会内部が騒がしく、信者の人心も動揺していると聞きます」


 「まさにそのとおりだ。しかも教王選挙がある。騒がしさは続くだろうな」


 十年に一度。教会の最高位である教王を選ぶ選挙が行われる。教王は帝国全土から選抜された五十名に及ぶ高位の司祭によって選ばれるのであった。


 「ミサリオ様もご出馬されるのですか?」


 十年前。アルスマーンは教王選挙に出馬し、バドリオに僅差で敗れている。そのためか、今回もアルスマーンの出馬を望む司祭も多く存在していた。


 「私も年だからな。たとえ勝ったとしても十年の任期に耐えられるか……」


 「しかし、そもそもここ近年の騒々しさの原因は現教王にあるのは明白です。仮に現教王が再選されますと、さらに拍手がかかります。それを収められるのはミサリオ様しか……」


 「買い被りすぎじゃな、スーラン。それに口は慎め」


 「ですが、現教王は政治的すぎます」


 現教王は政治的すぎる。的確な表現だとアルスマーンは思った。


 神託戦争についてもそうだ。巫女の神託を皇帝に告げ、皇帝の権威を高めよと進言したのは他ならぬバドリオであった。バドリオの魂胆は見え透いていた。これを機に若くして即位した皇帝に恩を売り、教会の発言権を強めようというのだ。


 この話を聞かされた時、アルスマーンは強硬に反対した。しかし、最高司祭会議はバドリオの息の掛かったものばかりで、アルスマーンの意見が通じることはなかった。


 『結局、バドリオの魂胆は実現せず、ただ今の混乱だけが残った……』


 だとすれば、やはり自分も出馬すべきなのだろうか。たとえ選挙に負けたとしても、選挙活動の中で現体制を批判し、正すべきなのだろうか。


 『いかんな。自分にそのような力があると思うのは増長の限りだ』


 アルスマーンは自己を戒めるように首を振った。


 「教王選挙はいずれのこととしても、老骨にできることはせんとな。若い者に荒んだ世界を残さんためにもな」


 神託戦争では若い命が沢山なくなった。そのことを思うと、アルスマーンは激しく胸が痛んだ。


 「そういえば、神託の巫女はどうしたのであろうな……」


 アルスマーンの胸裏に、ひとりの少女のことが思い浮かんだ。神託戦争の原因ともなる巫女。彼女はその神託がために神託戦争終結と同時に教会を追われたのであった。


 「神託の巫女といいますと、レレン・セントレスのことですな」


 「そうじゃ。彼女の神託を利用しておきながら、終戦後は戦争の原因を作ったという理由で教会を追放された。私はその時、静観を決め込んでしまった。悔いの残ることだ」


 アルスマーンは、雪の降る風景に目を転じた。大講堂からこの部屋へ来るまでに見た時よりも激しく降っていた。


 神託の巫女レレンは、この寒空の下で震えてはいないだろうか。アルスマーンは、今となっては彼女の無事を祈るしかなかった。

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