総本山エメランス②

 「帝暦一二二四年。新たな年を信者の皆様と迎えられたことを嬉しく思います」


 荘厳な講堂に低くもよく通る声が響いた。数百人いる信者達は物音一つたてず、一言一句聞き逃さないように真剣な眼差しで耳を傾けている。


 「私、バドリオ・シュルーヘムは、教王となって今年で十年を迎えます。その間、神託戦争があり、今もその傷跡が癒えたとは言えません。それも私の不徳の致すところと反省しております」


 バドリオは一息ついて講堂を見渡す。どの信者もやや悲しげに表情を曇らせていた。それは教王様だけの責任ではありません、と多くの信者が訴えかけているようだと思った。


 そういう信者達の眼差しは嫌いではなかった。バドリオは、得意になって再度信者達を見渡した。だが、途端にバドリオは不機嫌になった。信者達の最前列にいなければならない男がいなかったのだ。皇帝ジギアス。年始に皇帝が総本山エメランスを訪れ、教王の説教を聴くのは慣例となっているのだが、ジギアスは姿を見せていなかった。バドリオは不機嫌さを表には出さず、言葉を続けた。


 「しかし、皆様の信仰心が揺るぎないものであることは、教王として嬉しく思います。この新年の礼拝にも、数多くの信者の皆様が帝国全土から集まってくれました。この信仰心こそ、私は大切にしたいと考えています」


 講堂の一角から嗚咽が漏れた。一人の老女が口を押さえながらはらはらと涙を流していた。バドリオの言葉に感動したのだろう。こうして説教をする度に一人や二人、感涙する信者が存在していた。バドリオは機嫌を直した。


 「皆様、祈りましょう。揺るがぬ信仰と絶え間のない祈りこそが、人の心を穏やかにし、平和を招くのです」


 バドリオは体を反転させ、壁にかけられている天帝の像に祈った。きっと背後の信者達もバドリオに倣って祈っていることだろう。そう思うと、バドリオは言い様のない高揚を感じた。




 教会の総本山エメランスは、帝国の中央部よりやや西南に位置している。緯度としては帝都ガイラス・ジンとほぼ同じぐらいなのだが、標高の高い山岳の中腹にあるため冬となれば一面雪に覆われた。


 「今年は一段と寒いな。雪も例年なく降っている……」


 信者への説教を終えたバドリオは、執務室に戻り、降りしきる雪を窓から眺めながら、熱いお茶で体を温めていた。


 「はぁ……」


 バドリオの視界の外から、気の抜けた声がした。不快に思いながらもそちらへ目を向けると、げっ歯類のような小男が座っていた。


 「はぁ、では困るのですよ、マトワイト卿。どうして私があなたをお呼びしたのかお分かりにならないか?」


 「恐縮でございます、教王様。私には一向に……」


 とぼけているわけではないのだろう。ホルス・マトワイトは、そのような腹芸ができるような男ではなかった。


 『これでも帝国権力の中枢のいるのだからな……』


 中枢どころか彼の肩書きは教会伝奏方長官という大将軍、国務卿と並ぶ帝国権力の最高峰にあった。帝国政府と教会の橋渡しのような役割で、時として皇帝の代理として全権をもって教会に対して折衝をすることもあった。過去には実質的に教会を支配していた伝奏方長官もいたといわれているほどである。


 しかし、このホルス・マトワイトという人物は、強権とはほど遠かった。任務に忠実であることだけが取り得のような男で、どうしてこいつが人臣の最高峰の一角に辿り着けたのか不思議に思うほどであった。


 「どうして皇帝陛下はお見えではないのか?帝国皇帝が新年の礼拝にお見えになるのはレオンナルド帝以前より続く慣例のはず」


 ホルスの顔がさっと青くなった。


 「こ、皇帝陛下はお風邪を召しておられまして……」


 「ほほう、去年も風邪、一昨年も風邪。皇帝陛下はお体が弱いようですな。年中、戦に出られているのに……」


 申し訳ございません、とホルスは我事のように謝罪した。


 「皇帝陛下は我ら教会を愚弄されておられるのか?」


 この辺り、バドリオの心情は複雑であった。バドリオは、あの野獣の様な皇帝が大嫌いであり、できれば顔などを見たくなかった。しかし、だからと言って年始の礼拝に来ないというのは軽んじられているような気がして不愉快であった。


 「決してそのようなことはございません。皇帝陛下はご信仰が深く、教会のことを深く敬しております。その証拠に今年も多くの献上品を……」


 「物を差し出せば我らが気を良くするとお思いか?そのような俗物と思われているというのは心外ですな」


 「け、決してそのような……」


 ホルスは青ざめ、声が震えていた。


 『きっと皇帝に対してもこういう態度を取るのだろうな……』


 そう思うと苛めるのも気の毒になってきた。それに礼拝に来ぬのはあの猪皇帝の我儘な意思であろう。ホルスの責任ではあるまい。


 「まぁ、今更言っても仕方のないことですかな。我らとしては遺憾であったと皇帝陛下にお伝えください」


 「確かにお伝えいたします」


 この男は伝えはするだろう。だが、あの皇帝が生真面目に回答を寄越すことはないだろう。


 「そんなことよりも、マトワイト卿。例の件はどうなりましたかな?」


 皇帝が年始の礼拝に来なかったことよりも重大な案件が帝国政府と教会、というよりも皇帝と天界の間に横たわっていた。


 皇帝が教会や天界の許可を得ずに、コーラルヘブン領を皇帝直下地として併呑してしまったのである。コーラルヘブン領は、天使が人間界に始めて下り立った地とされており、教会も神聖視をしていた。だが、それほどの地であるにも関わらず、これまで教会領とならず、余人の統治に任されてきた。


 だからバドリオとしては、皇帝がコーラルヘブン領を直轄地にしたと聞いても不愉快に思ったものの、これに怒り、抗議するつもりはなかった。ところが、激しい怒りを顕にしたのは天使達であった。天界院がエメランスに駐在している天使を通じて激しく抗議し、即座撤回を要求してきたのである。


 「その件につきましての皇帝陛下の見解は、地上世界に関するいかなる政治的処置は皇帝に帰するものであり、天界といえどもその干渉を受けないというものでして……」


 「それは幾度となく聞いた。そして幾度となく申し上げた。しかし、天界は納得せんでな」


 と言ってみたものの、ホルスの言う皇帝の見解の方が正論なのである。千年前の聖戦終了時、天帝は『人間界におけるいかなる政治的処理は皇帝の権限によって行うべし』と帝国の初代皇帝と誓約しているのである。無理難題を言っているのは天界の方なのである。


 「再度皇帝陛下に申し上げますが、返答は変わらぬかと思われますが……」


 「マトワイト卿。言葉を慎んでいただこう。私が申し上げたことは天界からの要請。つまり、天帝様のお言葉にも等しいのでございますよ」


 我ながら破綻した言い方だと思ったが、そう言って煙に巻くしかなかった。それほど教会、天界にとって分の悪い主張なのである。


 しかし、バドリオには別の思惑もあった。これを機に天界を後ろ盾にして皇帝に対して強硬に出て、屈服させてやろうと。


 「はぁ……。これは失礼しました。陛下には確かにお伝えいたします」


 ホルスは今にも泣きそうな顔をしていた。これ以上、厳しいことを言うまいとバドリオは思い直した。皇帝と対立関係が続く以上、この男を味方にしておいた方が良いという打算がバドリオの中で働いたのだった。


 『それに直に教王を選ぶ選挙がある。味方すべきは多い方がいい』


 バドリオの目下の懸念は、皇帝との不和や天使の存在ではなく、教王選挙であった。教会における最大の権力を得て十年、まだまだ手放すつもりはなかった。

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