帝都にて

帝都にて①

 自分が何者であろうか。


 シード・ミコラスは、そんな哲学的なことを生まれて一度も考えたことがなかった。正しくは記憶のある二年の間で一度もなかったと言うべきだろう。


 いや、そもそもシードにとっては哲学的な命題ではない。本当に自分が何者であるか、何処の誰なのか、ということである。


 エルマには、そう考えることを放棄してきたと指摘された。だが、シードは放棄することで決して現実の問題から逃げていたわけではなかった。これからを生きる自分にとって過去は不要であると真剣に考えていたからだった。


 しかし、ここに至り、自分が何者であるのかを考えなければならない事態に直面してしまった。どうやら自分は天使であるらしい、という事実が発生したのである。


 最初、天使エシリアは自分のことをユグランテスなる天使だと言った。その時は信じられないと言うよりも、変な冗談を言う天使だな、とエシリアのことを気味悪く思ったほどであった。


 しかし、そのすぐ後に、シードは自分の背中に八枚の翼が発生したのを見てしまったのである。間違いなくそれはシードが天使である証拠に他ならなかった。




 「僕は天使なのでしょうか?」


 総本山エメランスへと向う道中、シードは思い切ってエシリアに聞いてみた。


 「天使なのは間違いありません。でも、シード君がどういう天使なのか、それがまったく分かりません」


 エシリアという天使は、とても優しく、丁寧にシードに接しくれた。シードにしてみれば、姉ができたような感じがして、ちょっと嬉しくあった。


 「僕は、エシリア様のお知り合いの天使にそっくりだと言っていましたが……」


 「そっくりというよりも、そのものです。今でもシード君が実はユグランテスだと疑っているほどですよ」


 エシリアがそう言って微笑んだ。シードはその笑顔にどきりとし、顔が紅潮した。


 「でも、やっぱり僕はそのユグランテスさんではないんですよね?」


 「ユグランテスは、魔力の乏しい天使でした。翼も小さな一枚翼でした。八枚の翼を生やしたシード君とは雲泥の差があるといわざるを得ません」


 魔力。天使と悪魔しか使えないという力。それが自分にもあるらしい。しかし、シードには実感などなく、いざ使ってみようとしても、どのようにして使えばいいのかすら分からなかった。


 「僕は何者なのでしょうか?記憶を失っていますけど、今の境遇でも十分幸せでしたから、極力考えないようにしてきました。でも、そういうわけにはいかなくなりましたよね?」


 「怖いですか?真実を知るのが」


 「分かりません。でも、自分が自分ではなくなってしまいそうです。カーブ村での二年間も否定されるような気がして……」


 「それは違います。たとえどんな結果になっても、あなたはあなたです。記憶を失ってからの二年間も、記憶を失う前の歳月も、シード君にとっては大切な歴史の一部です」


 エシリアはどこまでも優しく諭してくれた。出会った時はエルマに対して敵意むき出しにしていて怖い天使だと思っていたが、やはり本当は慈悲深い心優しい天使なのだ。


 「ありがとうございます。エシリア様、少しは心が楽になりました」


 「……。様付けはやめてください、シード君。今は人間のふりをしていますから、不自然です」


 エシリアはややはにかみながら言った。やはり天使というよりも姉と言った方が相応しいような気がした。




 「自分が何者か?そんなもん知ったことかよ」


 シードが抱く疑問に対し、エルマは実にぶっきら棒に答えた。


 「お前自身が分かっていないことを私が知っているわけないだろう」


 何が不機嫌なのかエルマはシードと距離を開けるようにして足早に歩いている。シードは追いつくのに必死であった。


 「そういうことじゃなくてですね。エルマさん自身のことですよ。自分が何者であるかって考えたことありますか?」


 「それこそ知ったことかよ。私は私。エルマ・ジェスダーク以外の何者でもないよ」


 エルマは胸を張って言った。その言葉に一部の淀みなどなく、それが自己の中での真理であることを一転の曇りなく信じているようであった。


 「私は私。僕は僕か……。エシリアさんも、さっき同じようなことを言っていました」


 「けっ。あんな淫乱天使と一緒にするんじゃねえよ」


 気色の悪い、とエルマはますます不機嫌になっていた。


 「僕は僕であるために自分のことを知りたいと思うようになりました。仮に僕が天使であったとしても、エルマさんは、一緒に旅を続けてくれますか?」


 エルマは顔から不機嫌の色が消えた。そしてこれまでシードが見たことのない表情で破顔した。


 「当たり前だろう。お前は私の下僕なんだからな」




 「自分が何者かだって?難しいことを考えるもんだな」


 サラサ・ビーロスに聞いてみると、そんな答えが返ってきた。


 「考えたことないの?」


 シードは、サラサという自分よりも年下であるこの少女に興味を持っていた。年下なのに大人びた雰囲気と思考を持ったこの少女は、エストブルク領における内乱に加担したと言う。その詳細についてもいずれは聞いてみたいと思っていた。


 「う~ん……考えないでもなかったが、難しすぎてやめた。どうにも答えのでない質問をあれこれと考えるのは性に合わないらしい」


 サラサは、ははっと短く笑って続けた。


 「自分が何者というよりも、自分が何を成すべきか。私は最近そればかりを考えている。折角この世に生まれたんだから、何かを成したい。たとえ小さなことでもな」


 「おやおや……。あれだけ表舞台に立つことを嫌がっていた人の言葉とは思えませんな」


 サラサの隣を歩いていたジロン・リンドブルが笑うように言った。


 「うるさい爺さんだな。誰にだって心境の変化ってもんはあるだろう」


 サラサはむくれた。不愉快だと言わんばかりに早足で先に行ってしまった。


 「やれやれ、照れ屋なのは相変わらずですな」


 ジロンは冷やかすように言った。この二人、主従のようなそうでないような、よく分からない関係であった。


 「シード君。自分が何者かということを考えるのはあまり意味のないことだと思うよ。何を成すべきか、何を成したかということのほうが重要じゃないかな?」


 「確かにそうですね」


 ジロンはかつての神託戦争の英雄だという。それだけに発言に重みがあった。


 「そして成したことが集積して初めて自分が何者であるかを知ることができる。人間なんてそんなものだと思うがね」


 「大それたことを言う爺さんだな。おい、シード、話半分に聞いておけ。爺さんの戯言に付き合っていたらきりがない」


 先を行くサラサが大きな声で言った。シートとジロンは顔を見合わせて、サラサに気づかれないように笑った。




 「自分が何者か、でござるか?う~ん……考えたこともござらんな」


 ガレッドは顰め面をして真剣に考えていた。この実直で感情量の多大な男は、他人の悩みであってもまるで我事のように考えてくれていた。その結果導き出された回答が、考えたこともないというものであっても、シードは非難するつもりはなかった。寧ろガレッドらしいと思えた。


 「申し訳ござらんな。某、どうにも哲学的なことは不得手でして……」


 「そんなことないですよ。でも、教会の司祭って、そんなことばかり考えているとばかり思っていました」


 「某は司祭ではなく僧兵でござったからな。聖職者という括りには間違いないのでござろうが、雲泥の差でござる。体ばかり動かしておった」


 頭を使うことは苦手でござった、とガレッドは苦笑した。


 「ただ司祭達の言うとおりに体を動かしておればそれでよいと思っていたのでござるよ。それが善行であると教えられていたのでござるからな。でも、実際には違っていた。教会はとんでもなく腐っていた」


 その辺の事情はシードも体験したので十分に承知していた。


 「その時はちらりと考えたものでござるよ。某は何をしているのか、腐った教会で働かされていた某は何者だったのか。知らぬこととはいえ悪事に手を貸していたのでござるからな。しかもそれを善行だと信じていたのだから余計にたちが悪い」


 ガレッドは懐かしそうに目を細めた。苦悩していた頃の自分が懐かしく思えてくるということは、ガレッドなりの回答が出ているのだろう。


 「しかし、レンと出会って分かったのでござるよ。彼女がどういう経緯で教会を追われたからは知らぬが、それでもレンはしっかりと自分を持ち、過去を糧にして未来へ向かって歩いている。年少のレンがそれほど気丈なのに、某がくよくよと弱っていてはいけないと思ったのでござるよ。そういう意味では某はレンに助けられたのでござるよ」


 「私は……それほど立派な人間ではありません」


 少し先を歩くレンに聞こえていたのか、立ち止まり振り返った。マランセル公爵領を出てこの方、元気のないレンであったが、ますます元気を失っているようであった。


 「だ、大丈夫でござるか?ここ最近、加減が優れぬようでござるが……」


 「大丈夫、と言いたいのですが、こんな風では嘘をついているみたいですね」


 「レンさん。少し休みましょうか?」


 「ありがとうございます、シードさん。でも、本当に大丈夫です」


 ガレッドの言うとおりレンは気丈であった。だが、その気丈さこそが彼女のあだでもあるように思えてきた。


 「ただ私は皆さんが思っているような人間ではありません。弱い人間です。その点は誤解しないでください」


 か細い声で呟いたレンは、それでもしっかりとした足取りで歩き始めた。ガレッドが心配そうしながらも、決して声をかけようとしなかったのは、彼の優しさであるとシードは思った。

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