天使と悪魔、困惑す②

 サイラス教会領の領都ドノンバに下り立ったエシリアは困惑するばかりであった。


 通常、教化のために人間界に下り立った天使は、その教区の責任者から挨拶を受け、教化の予定を立てるのだが、サイラス教会領の責任者、即ち司祭長であるヤナ・ヤナックがいなかったのだ。いや、ヤナ・ヤナックだけではなく、サイラス教会領の幹部司祭の数人がいずこかへと出かけたまま帰ってきていなかったのだ。


 「どういうことなんですか?」


 エシリアは自分でも分かるほどに眉間に皺を寄せた。教会の幹部ほとんどが行き先不明になっているなんて、古今聞いたことない異常事態であった。ましてやここは教会領である。各地の教会の範とならなければならないはずなのに。


 「はぁ……まことに恐縮なのですが、私も分かりませんで……」


 応対に出た事務長は気の毒なほどに恐縮していた。


 「どこに出かけられたとかも知らないのですか?」


 「はぁ。おそらくは休息所に向われたかと思うのですが、それは司祭長様達しかご存知ありませんので……。あ、僧兵達によって捜索は行っておりますので……」


 エシリアは呆れてしまった。幹部連中がこぞって休暇を取っているのも驚きだが、行き先を知らせないなんて信じられなかった。


 『職務怠慢にもほどがある……』


 最近、人間界の治安が悪くなっていると言う。まさにサイラス教会領のこの一点をおいても、人間界の乱れを象徴していた。


 「今しばらくお待ちいただければ、きっと司祭長様も戻って参ると思いますので……」


 「私がサイラスに来るという連絡は事前に入っていたはずです。いかなる理由があろうと、その期日に司祭長がおらぬというのはあなた方の怠慢です。どうして私がその怠慢に付き合って待たなければならないのですか?」


 事務長は絶句して俯いてしまった。この怠慢は事務長の責任ではなく、明らかに司祭長ヤナ・ヤナックの責任であった。しかし、当の司祭長がいない以上、エシリアとしては事務長に不満をぶつけるしかなかった。


 「もういいです。私ひとりで行ってい参ります。各教会には通達がいっているのですから、中止するわけにもいきません」


 「そ、それは……。今しばらくお待ちくだされば……」


 気の毒ではあったが、これ以上構ってはいられなかった。エシリアは書類をまとめて席を立った。




 出立前にエシリアは、教会から渡された資料に目を通した。その内容は天界でクレモアからもらった資料とそれほど異なる点はなかった。教化は順調とは言えなかった。


 そもそも天使による教化とは何か?


 極めて単純に言えば、天使が定期的に人間の前に姿を見せる。ただそれだけのことであった。説教や日々の生活の精神的管理などは教会の仕事であった。但し、天使にも重大な仕事があった。それは生まれたての新生児を抱擁する所謂『祝福の儀式』である。


 人間から見れば単に天使に抱擁してもらうだけのことなのだが、天使の側から見れば単なる抱擁ではない。抱擁することで新生児から魔力を抜き取っているのだ。


 人間はわずかながらも魔力を持って生まれてくる。成長するにつれ魔力も増大し、一定の修行を積めば魔法を使えるようにもなる。そのため人間が戦争などに魔法を使わないように、魔力を持っていると言う自覚のない新生児の間に抜き取ってしまうのだ。当然、人間側はこの事実を知らない。


 抜き取った魔力は抱擁した天使が体内に溜め込み、天界に帰った時に天帝自らが管理している『天帝の果実』に移すことになっていた。この『祝福の儀式』も天使にとっては教化の中に含まれており、最も重要な行為であった。


 「マランセル公爵領は新生児の誕生がここ最近ない……」


 書類に目を通し、エシリアが気になったのはその点であった。ここ二三年、新生児誕生の報告がされていなかった。そのためだろうか、天使による教化も同じ期間ぐらい行われていなかった。


 「そもそもマランセル公爵領には教会はないのですか……」


 マランセル公爵領は非常に小さな領地である。だから領内には教会がなく、サイラス教会領内にある教会が担当しているようである。


 「今回はこの一帯を重点的に回りましょう」


 サイラス教会領南部からマランセル公爵領にかけては、所謂田舎である。過疎地と言ってもいい。従って教会の司祭達は、人口の多い都市部を中心に教化に赴くという。そうなるといい顔をしたいがために司祭達は、天使による教化の行程も都市部もしくは裕福な集落を中心に組むという傾向があった。何の取り得もない田舎はどうしても疎かになってしまった。


 エシリアはそのような傾向を心苦しく思っていた。天使というものはすべての人間に対して平等でなければならない。それは天帝の教えであり、都市部だから裕福な村だとかいう理由で区別をつけていけないのだ。


 だが、現実問題として天使のよる教化日程というものは司祭が計画しており、それに天使が口を差し挟まないというのが慣例であった。


 「その責任者がいないのなら、好きにさせてもらおう」


 幸いにも責任者たるヤナ・ヤナックがいない。ならば慣例を無視しても構わないだろう。エシリアは、あまり教化が行われていないサイラス領南部からマランセル公爵領へ行ってみようと思った。


 「でも、田舎となると、ユグランテスの情報は得られそうにもありませんね」


 エシリアは嘆息しながらも、個人的用件よりも天使としての仕事のほうを優先せねばと思った。

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