天使たち③
イピュラス城の周辺には天界院に属する下部組織の庁舎が軒を連ねている。そのほとんどが人間の教化に関するものばかりであった。
天界では人間界を区分し、それぞれにの地区に担当する天使を複数置いていた。サイラス教会領を中心とする北西部を担当する庁舎にひとりの女性天使が姿を見せた。
腰近くまでの伸びた長い金髪に、くりっとした大きな碧眼。帝国成立以前の神話に出てくる美の古代神を思わせる秀麗な顔立ちは、すれ違う者が必ず立ち止まり振り返るほどであった。が、彼女自身はそのようなことに頓着している様子もなく、庁舎の軒を潜った。
「やぁ、エシリア。ごきげんよう」
この地区を担当する天使の長は、すでに老境を迎えた天使であった。エシリアにとっては、祖母と同じぐらいの年齢かも知れず、いつも微笑を絶やさなかった。若い頃は教化にあっては随分と実績をあげたようである。
「ごきげんよう、クレモア様」
「今日も元気そうだね。教化も順調のようで」
クレモアは眼鏡をかけ直し、卓上の書類にじっと目を通した。
「ありがとうございます。それで今回の教化は?」
「マランセル公爵領付近に行ってもらいましょうか。帝国でも辺境だからここ最近教化を行っていなくてね」
「でも、その辺はサイラス教会領が近いのでは……」
教会領が近いと必然的に天使が集まり、教化もよく行われているはずである。
「いろいろとややこしい所なんだよ」
「はぁ……」
「まぁ、エシリアなら大丈夫だよ。拠点になる教会には伝えておくから、頑張っておいで」
「承知しました」
「はい、これが詳細な書類だよ」
後で目を通しておいてね、とクレモアは言うと、もう次の天使のための書類を準備していた。
書類を受け取ったエシリアは、その足で自宅に戻った。
エシリアの自宅はラピュラスの外壁近くにある。天使達の中では平均的な家屋で、人間で言えば庶民の家ということになるだろうか。
『ユグランテス……』
エシリアは隣家を見た。そこにはエシリアより年下の少年ユグランテスが住んでいた。天使としては片翼で魔力も低い天使であったが、人懐っこい笑顔が印象的な、エシリアにとっては弟のような天使であった。
『もう失踪していて二年……』
いろいろと世話を焼いた記憶が蘇る中、失踪して二年という月日があっという間に過ぎたような気がした。
あの日、ユグランテスは初めて教化を行うべく、地上へと下りることになっていた。
エシリアは心配であった。人間界において天使は崇拝されているが、すべての人間がそのとおりであるとは限らない。中には『天使狩り』などといって天使を殺害し、翼や装飾品を分捕る人間もいるという。他者を信じて疑うことを知らないうえ、魔力のないユグランテスがそのような目に遭うのではないかとエシリアは心配で堪らなかったのだ。
『心配しなくていいよ。僕だって立派な天使なんだ。ちゃんと仕事を果たしてくるよ』
ユグランテスは、エシリアの心配に多少迷惑そうな顔をしていた。自分の部屋で嬉しそうに荷造りをするユグランテスを見ていると、エシリアはそれ以上何も言えなかった。
『気をつけるのよ、ユグランテス』
『分かっているよ、しつこいなぁ』
不満げに頬を膨らますユグランテス。それがエシリアが見たユグランテスの最後の顔であった。教化のために人間界に下りたユグランテスはついに帰ってこなかったのだ。
人間に下りて帰ってこなかった天使は、一般的に『堕天使』と呼ばれている。堕天使になる理由は基本的にふたつしかない。人間界に存在するあらゆる欲望に負け文字通り堕ちてしまい意図的に天界に帰らなくなるか、不慮の事故や人間による危害で死んでしまうかのどちらかであった。ユグランテスは後者として処理され、捜索も行われなかった。ユグランテスの両親も、息子が堕天使になったことを恥じ。いずこかへと姿を消した。
『今回も時間があれば捜してみましょう』
エシリアは時間が許す限りユグランテスの捜索を続けていた。しかし、広大な人間界でひとりの天使の消息を掴むのは至難の業であった。それでもユグランテスの消息を捜そうとするその情念の正体をエシリアはまだ理解していなかった。
荷物を整えたエシリアはそのままラピュラスの外壁にある『天地門』へと向った。地上への下りるため外壁に設けられた唯一の門であり、そこから以外では天使は地上へ下りることはできなかった。
これは地上へと下りる天使を管理するための措置であり、翼をもって飛翔し、外壁を飛び越えた天使は即刻堕天使と看做され、天界から追放されるのであった。
「あれは……」
天地門の近辺は、これから地上へと下りようとする天使でいつも溢れていた。その一群の中に、エシリアは嫌な奴を見かけてしまった。
「おお、エシリアではないか……」
エシリアは無視しようと思っていたが、相手の方が気がついてしまった。
「アレクセーエフ……」
エシリアは、はっきり言ってこの天使が嫌いであった。人間であるならどんな相手であろうと満面の笑みをもって接することができるが、同輩の天使となれば好悪の感情を明確に現すことができた。
「そのような顔をすると、美しい顔が台無しですよ」
気障ったらしい台詞にエシリアはますます嫌悪を募らせた。エシリアは無視することを決め込んだ。
「エシリア。前から話をしている件、考えてくれたか?」
以前よりエシリアはアレクセーエフに言い寄られていた。男女の付き合いだけではなく、アレクセーエフが属するガルサノを頂点とする派閥に入らないかと誘われていたのだ。
「何度もお断りしたはずです」
その点についてはきっぱりと言った方がいい。エシリアはそう思い、面と向って否定した。エシリアはどの派閥にも所属するつもりはなかった。
「君ほど有能な天使ならガルサノ様も認めてくださる。若くして執政官となられたガルサノ様のもとで働けば、君の将来だって……」
「とにかく、お断りします」
付き合ってられなかった。エシリアは誰かに認められたいがために天使としての責務を果たしているわけではなく、出世のためでもなかった。
「君のためだ。よくよく考えてくれたまえ」
何度も言われた台詞である。地上へと下りる順番が回ってきたので、アレクセーエフが天地門の方へと姿を消していった。エシリアはようやく一息つけた。
『そういえば、アレクセーエフはどこの地区を担当しているのかしら……』
同じ地区ではないのは確かだが、どこを担当していてどの程度実績をあげているか聞いたこともなかった。そう思うと、そんな怪しげな輩と付き合えるはずもなかった。
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