雷神と少女②
昼食を終えたジロンは、開墾途中の畑へと戻った。昼からはモートンも手伝ってくれるという。モートンは体格がよく、農業経験者でもあるので非常にありがたい戦力であった。
モートンと他愛もない話をしながら土を掘り返しているうちにあっという間に夕暮れになった。そろそろ今日はこれで戻ろうかと思っていると、微かながらも地を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
『これは馬か……。単騎じゃない、複数だ』
かつて戦場の先頭に立ち、自らも騎馬で戦場を駆け抜けたジロンにとっては聞き慣れた音であった。
「男爵様……あれ」
モートンがおびえたように声を上げた。彼の視線の先に砂埃があがっていた。
「あれは騎兵隊だな」
老境の身とはいえ視力には自信があった。群を成す騎馬が砂埃をあげて領都の方向からエスティナ湖に向かって行軍しているようであった。数は二百、いや三百騎はいるだろうか。
『速度からして演習ではあるまい……』
明らかに実戦の行軍速度であった。しかしながら火急の事態ではないらしく、騎馬隊はエスティナ湖の湖畔で停止し、休憩している様子であった。
「何事でございましょう」
モートンの目にも見えてきたらしく、不安そうに言った。
『継子争いに何事か起こったのか……』
エストハウス家が抱えている問題についてはジロンも知っていた。嫌でも耳に入ってくるほど、この問題は巷間で噂になっている。しかし、ジロンはこの問題については耳を塞ぎたかったし、目を閉じていたかった。騎士を引退し、もういかなる者にも仕えていないジロンにとっては、関わりを持ちたくない話であった。
「今日は戻ろうとするか、モートン」
畏まりました、とモートンが農具を片付け始めた。その間ジロンは、ずっと湖畔に駐留している騎馬隊を眺めていた。すると、単騎でこちらに駆けてくる騎馬が見えた。その影はやがて大きくなり、騎馬に乗っている者の姿がはっきりとしてきた。
ひどく若い男であった。騎馬隊の指揮官にしては鎧を着けておらず平服である。体躯も騎士をしているとは思えぬほど華奢であるが、眼光を鋭く、只者ではないとジロンは判断した。
「ジロン・リンドブル様ですね」
男はジロンの随分前で馬から下り、恭しい動作で頭を下げた。
「いかにもそうだが、貴官は?」
「私はベンニル・ドレスデンと申します」
その名に聞き覚えがあった。継子争いをしているマグルーン派の首魁である。
ジロンは、その名前を心中で反復しながら、とてつもなく嫌な予感がしていた。
ベンニル・ドレスデンは常に微笑をたたえ、話口調もとても穏やかであった。
今や飛ぶ取り落とす勢いの権勢を誇るマグルーン派の首魁であるが、そのような態度をおくびにも出さず、お茶を持ってきたキャロンにも丁寧に言葉をかけるほどであった。しかし、その眼光は常に鋭く光り、油断ならざる相手であることを本能的に教えていた。
立ち話をさせるわけにもいかず、家へと招いたのだが、ジロンはそのことを少々後悔していた。武辺者として今日まで生きてきたジロンからすれば、その笑顔に裏に何を隠しているか分からないような男は苦手であった。
「それで私に何の用ですかな?」
「折角、神託戦争の英雄が近くにおられるということなので、挨拶に参ったまでのことです」
ベンニルは、その穏やかさを崩さなかった。
「あれだけの騎馬隊を動かしておいて、世捨て人同然の私に挨拶だなんて、そんな悠長な話もありますまい」
ベンニルと喧嘩するつもりはなかったが、だからと言って悠然と会話を楽しむつもりもなかった。早々に用件を聞き出して、お帰りいただくだけであった。
「ふふ。雷神に遠まわしな話は無用というわけですか」
癇に障る芝居がかった言い方であった。
「挨拶に来たというのは本当です。しかし、ただの挨拶ではありません。我々は先ほど西部鎮守都督となられたアズナブールが、畏れ多くも御領主様に対して謀反を企てられたので、それを討伐に向かい最中なのです」
ベンニルは事務的に淡々と言った。ジロンはやや驚きはしたものの、いずれこういう事態になることは予想していた。
『だが、本当にアズナブール殿が謀反を企てわけではないだろう……』
以前、ちょうどジロンが領地を拝領した時に、アズナブールとは面識があった。実に温厚篤実で好青年という印象で、とても謀反を起こすような人物には思えなかった。おそらくはベンニルをはじめとするマグルーン派の策謀であろう。
「謀反とはまた物騒な……」
しかしながら、ジロンはアズナブールを擁護するつもりはなかった。アズナブールの境遇には同情するが、やはり関わりを持ちたくなかった。
「はい。まことに遺憾ながら。そこでリンドブル様にはぜひともにアズナブールの謀反を非難し、討伐軍を指揮しておられるマグルーン様を支持して欲しいのです」
やはりそういうことか、とジロンはため息をつく思いであった。
「そのようなことを仰られても、甚だ困るだけです。エストハウス家より領地を拝領しておりますが、私はエストハウス家の家臣ではありません。いえ、すでに何者にも仕えていないただの隠居爺です。誰かを非難つもりもなければ、誰かを支持するつもりもありません」
「局外中立というわけですか……。ま、それでもいいでしょう」
ベンニルは一口茶をすすり、立ち上がった。
「その言葉、お忘れなきようお願いします。我々も雷神と事を構えたくありませんから」
要するにベンニルはジロンを仲間に引き入れるか、悪くても中立の立場にしておきたかったのだろう。その言質を取るためにわざわざ来たようであった。
ベンニルの言い方にやや不快感を覚えながらも、これで去ってくれるのであればジロンとしては何も言うことはなかった。
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