雷神と少女

雷神と少女①

 歴史というものが運命という歯車で動いているとするならば、サラサはまさにその歯車のひとつであった。


 シードがエルマと出会うことで歯車がかみ合い、またシード達がガレッド、レンと出会うことでさらに歯車がかみ合い、大きな装置としての歴史が動き出すとするのなら、サラサもまたひとりの男と出会うことで歴史という大仕掛けがゆっくりと動き出すのであった。


 ジロン・リンドブルがこの時期にエストヘブン領にいたのは全くの偶然であった。しかし、その偶然さえも歴史を動かすための歯車であったとするなら、帝国の歴史の中でこれほど大きな歯車はなかった。




 かつて神託戦争において『雷神』と称された英雄がいた。


 『発すれば雷神の如し。剣を振るっては一撃で敵兵を切り伏せる。これまさに一騎当千の騎士なり』という名文句で語り継がれるその英雄は、一言で言えば神託戦争を皇帝派優位に終わらせた最大の要因といっても過言ではなかった。しかしその英雄は、神託戦争が終結すると同時に表舞台から姿を消した。


 雷神ジロン・リンドブル。今やその名は歴史物語の主役として語り継がれるだけの存在となっていた。


 ジロンは、もともと皇帝派の領主ロッテンハルク家の騎士であった。若き頃から武勇に名を馳せ、神託戦争が始まる以前からその剣術において右に出るものはいないとされていた。


 しかし、彼が若かった頃は山賊討伐程度の戦いしかなく、その剣術は実戦では役に立たないのではないかとやっかみをもって批判するものも少なくなかった。そんな批判をひっくり返したのが神託戦争であった。


 神託戦争当時、ジロンは五十歳を超えていた。常人であるならばすで老境に差し掛かり、すでに第一線から退いていてもおかしくなかった。だが、ジロンは神託戦争において常に前線に立ち、剣を振るった。彼が戦場に立つとおよそ負けることがなく、その一騎当千の活躍は味方を鼓舞した。


 ジロンの活躍によって救われた領主は少なくなく、神託戦争終了後、彼らはこぞってジロンに対して領地の一部を恩賞として寄進した。エストハウス家もそのひとつであった。


 そのためジロンは、様々な地方に領地を持つという状態になっていた。ジロンは神託戦争後は騎士を引退し、主家であったロッテンハルク家を離れ、各領主から拝領したそれらの領地経営に専念することにした。大半の領地について代官を立てて管理させていたが、一部領地については自ら巡回し管理していた。


 とりわけエストヘブン領はジロンのお気に入りであった。気候も温暖で、風光明媚。一年の大半をエストヘブン領にある領地で過ごすこともあった。エストハウス家で内紛が起ころうとしていたこの時期も、ジロンはエストヘブン領にいた。




 エストヘブン領のちょうど中央部にエスティナ湖と名づけられた大きな湖があった。旧コーラルヘブン領の山々から湧き出た水がいくつもの小さな河川を通って一度この湖に溜まり、そこからさらに複数の河川を通って各地に水を送り続けている。


 そのエスティナ湖からそれほど遠くない丘陵地帯にジロン・リンドブルの領地があった。領地としてはそれほど広くなく、ものの一時ほどで外周をぐるりと回れる程度であるが、この領地に加えて年間五十万ギニーが下賜されていた。


 他の領主達から与えられた恩賞からすれば、それほど大きなものではなかった。それでもジロンがこの地に長く留まっているのは、この土地がいたく気に入っているからであった。


 気候は年間通して温暖で、適度に雨も降るため耕作にはひどく適していた。また丘陵地帯から臨むエスティナ湖も美しく、何度見ても見飽きることはなかった。


 その日もジロンは、エスティナ湖を見渡せるゆるやなか斜面に鍬を入れ、土を掘り返していた。昨年、隣の畑に葉もの野菜を植えて栽培に成功したので、今年は果物でも植えてみようかと思い、新たに開墾しているのであった。


 ちょうど近くにはエスティナ湖に注ぐ河川が通っているので水には苦労しない。土も柔らかく、栄養もたっぷりある。来年の春には果実を実らせる自信がジロンにはあった。


 「それにしてもよい土地だ」


 鍬を地面に突き刺し、ジロンはしばし体を休めた。改めて見るエスティナ湖は穏やかな波を立てて湖面を光らせていた。


 現役の騎士時代、土いじりが唯一の趣味であったジロンは、農耕に適したこのエストヘブン領の土地をひと目で気に入った。今でこそ各地を転々としているが、ゆくゆくはこの地を余生を過ごす住処として定住しようと思っていた。


 「あれもこの地を気に入ってくれただろうか……」


 ジロンは、ふと亡くなった妻のことを思い出した。ジロンの妻は、神託戦争の最中になくなり、ジロンは死に目に会うことができなかった。神託戦争終了後は騎士を引退し、妻とのんびりと余生を過ごそうと考えていたジロンにとって、この場に妻がいないことが何よりも辛かった。


 「男爵様ぁ!」


 ジロンが亡き妻のことを思い出していると、野太い大音声が聞こえた。エストヘブンの領地でジロンの世話をしてくれているモートンであった。ちなみにジロンは、神託戦争での活躍によって貴族に列せられ、男爵の称号を賜っていた。尤も、ジロンは未だに男爵と呼ばれるのが照れくさかった。


 「モートン、ここだ!」


 ジロンは鍬を高く掲げ、左右に振った。モートンはそれに気づいたらしく、手を振ってきた。


 「ご昼食の準備が整っておりますが、いかがなさいますか?」


 もうそんな時間になったのか、とジロンは少々驚いた。好きなことをしていると、どうにも時間が経つのが早かった。


 「分かった。すぐに戻る!」


 ジロンがそう叫び返すと、モートンは深く一礼をした。


 農具を片付けて家に戻ると、モートンの妻キャロンが食卓に配膳をしているところであった。


 「お帰りなさいませ、男爵様。さぁさぁ、お座りになってください」


 恰幅のいいモートンに輪をかけて恰幅のいいキャロンは非常におしゃべりで、相手が貴族に列せられたかつての英雄であっても、臆することなく喋りかけてきた。当初はそのお喋りに辟易としていたジロンであったが、慣れてくると性根が明るいキャロンがこの家を照らす灯火のように思えてきた。


 「おっ、今日はハタ豆のスープか」


 「そうですよ。男爵様の好物ですから、うちの人が今朝方市場で買ってきたんですよ」


 「それはすまなかったな、モートン」


 「いいんですよ。うちの人も好物ですから」


 モートンが何か言う前にキャロンが笑いながら答えた。この夫婦は万事この調子であった。


 三人で食卓を囲み、食事を取っている最中も、常に会話を主導するのはキャロンであった。ここから少し北に行った集落で養蜂を実験的に始めた、という話題を披露していた。


 「ほう、養蜂か」


 「そうですよ。ダマーヤで採れた蜂蜜が今帝都で大人気でございましょう?だからそれに続けとばかりに養蜂を始めたみたいなんですよ」


 「養蜂か……。面白いかもしれんが、素人がいきなり始めての商品にはならないだろう?」


 「それがでございますよ。わざわざダマーヤから養蜂の名人とやらを雇ったらしんですよ。しかもかなりの高給で。そこまでして養蜂を始めて、駄目だったらどうするんですかね」


 「まったくだな。そんなことをするよりも、もっと開墾をした方がいい」


 エストヘブン領は、これほど農耕に適した土地ながらも、どういうわけか放牧が主産業であった。領内全体が本気を出して適地を開墾していけば、エストヘブン領の収穫高は二倍になるのではないかと思うほどであった。


 「あらあら、開墾なら男爵様が積極的にやられているではありませんか」


 「私のは単なる土いじりだ。自分達で食うだけのことで、とても商品にならんよ」


 などと言いながらも、いずれは自分の作った野菜やら果物を市場に並べてみたいものだと思っていた。


 その後もキャロンは豊富な話題を披露し続け、ジロンにとって楽しい昼食なった。

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