獅子達の時代③

 ひとりの少女がいる。


 この恐るべき才覚を持った少女は、やがて至尊の地位へと駆け上っていくのだが、その過程において一度たりとも野心的にその地位を欲したことはなかった。その点において彼女はジギアスとは異なっていた。


 また能力の面でも彼女自身はジギアスを遥かにしのぐ才能を持ちながら、その才能の対して絶対的な自信などなく、常に懐疑的であった。この点においても彼女はジギアスとはまるで異なっていた。


 サラサ・ビーロス。未だ己の才能と運命を知らぬ少女は、罪人の子として帝国の一隅で軟禁状態にあった。




 「なんだこのパンケーキは!不味い!」


 フォークとナイフを乱暴に置いたサラサは、目の前にあった皿を押しのけた。


 「は、はぁ……」


 曖昧な返事をしてきたのは、サラサが軟禁されている屋敷を取り仕切っているテナルという男である。サラサの我儘に耐え切れず、一人だけいた女給が昨晩逃げ出してしまったので、テナル自身が昼食を持ってきたのである。


 テナルはもともとエストヘブン領の領都エストブルグの下級役人であった。下級役人といえども、領都で働くとなればそれなりの出世を見込まれる地位にある。だからエストヘブン領でも田舎にあたるメトス地方の片隅で、我儘な少女を相手にしていることは事実上の左遷であり、テナルの矜持をいたく傷つけたことであろう。


 それでも表面上はサラサに対して従順で慇懃なのは、元より彼のまじめな性格がさせているのか、はたまた大過なく任務を終えた暁に出世が約束されているのかのどちらかであろう。あるいは両方であるかもしれない。


 「パンケーキにはレンストンの小麦とダマーヤの蜂蜜と決まっている。そんなことも知らんのか!」


 「申し訳ありません。料理には疎いもので……」


 とテナルは弱々しく言うが、そんなことは百も承知である。テナル自身が料理をしているわけではないのだから、料理に疎いのは当然である。


 以前であれば、こんな我儘は決して許されなかった。出された料理に文句のひとつでも言おうものなら、容赦なく父の平手が飛んできただろう。だが、その父はいないし、母も兄達もいない。サラサひとりが生き残り、田舎の一軒家で冷遇も厚遇もされない軟禁生活を送っていた。


 サラサは、エストヘブン領の隣接するコーラルヘブン領の領主ゼナルド・ビーロスの一人娘であった。しかし、神託戦争において反皇帝派に属したがために終戦後、領地を没収させられた挙句、父と二人の兄は処刑、その一ヵ月後に母は心労によって病に倒れ亡くなったのである。ひとり残されたサラサは、女性ということと十ニ歳という年齢を考慮され、軟禁という形になったのである。


 軟禁されて約二年。変化の乏しい退屈なサラサの日常において我儘を言うことは、せめてもの憂さ晴らしであった。




 テナルが残ったパンケーキを持って退出するのを見届けると、サラサは寝台に飛び乗り倒れ込んだ。結局、パンケーキを一切れしか食べていないから大きく腹の虫が鳴った。こんなはしたない真似もビーロス家が存在していた頃は許されないことであった。


 『これもすべて父上のせいだ』


 サラサは握り拳を作り、天井に向かって突き上げた。


 ビーロス家は現在でこそ臣籍に降下しているが、その元を辿れば獅子王レオンナルドに通じる名家であった。父ゼナルドは聡明でよく慕われる主君で、娘という立場からの贔屓目ではなく、実際にコーラルヘブン領はよく治まっていたし、領民家臣からもとても慕われていた。


 そんな聡明な父がどうして神託戦争において客観的に不利な反皇帝派に組したのかサラサには理解できなかった。勢力としては皇帝派の方が多く、皇帝ジギアスも戦争の遂行者としては突出した才能を持っていた。


 それでも反皇帝派が一年にわたり対等に戦いえたのは、ゼナルドの功績が大であると言われている。しかし、サラサから見れば、反皇帝派に組した時点で判断を誤ったのであり、結果として刑死してしまったとあっては、そのような世評もまるで意味のないものであった。


 『そもそも神託戦争自体、馬鹿げた戦争だ』


 サラサは神託戦争のことを、教会にそそのかされて己の権威を強めようとした皇帝ジギアスと、皇統の血を引く一族として隙あらば帝位を簒奪しようと目論んだアドリアン・シュベールの児戯に等しい私戦でしかないと思っている。その私戦のために父と優しかった兄二人は刑死し、母もそのショックで死んだ。すべては誤った判断をした父のせいであった。


 今となっては、父も兄達の顔もおぼろげにしか思い出せなくなっていた。最後に父と兄達に会ったのは神託戦争が始まる以前であり、三人が刑死したという報告も帝都ガイラス・ジンから紙切れ一枚もたらされただけで、遺体さえ返ってこなかった。


 父と兄達が刑死したことを知った時、サラサに芽生えた感情は悲しみではなく怒りであった。馬鹿馬鹿しい戦争を始めた皇帝とアドリアン。そしてそれに加担した父。彼らはビーロス家を滅ぼし、母を死に追いやり、サラサから平穏な生活を奪った。憎まずにはいられなかった。


 「こんな生活をしていつまで生きられるか分からんが、泉下に行ったあかつきには父上をぶん殴ってやるんだ」


 そのための拳である。精々長生きして自分の顔など忘れているであろう父を問答無用で殴りつけてやるのだ。サラサはそう心に誓っていた。


 「サラサ様、おいででございますか?」


 扉の外から声がした。ミラ・レシャーナというサラサの身辺を世話している女性である。若くて美しい女性なのだが、全体的に引き締まった体をしている。おそらく彼女の本職は騎士なのだろうとサラサは見ていた。世話役というよりも護衛もしくは監視役といった感じである。


 「おるぞ。入っていいぞ」


 サラサが言うと、失礼しますとミラが入ってきた。


 「サラサ様。少し遠乗りでもして気分を変えられませんか?」


 ミラは時々こうしてサラサを遠乗り、即ち馬に乗っての遠出に誘うことがあった。サラサも気分がすっきりとするので遠乗りをするのが好きであった。そのことを見越してテナルがミラに誘うように言ったのだろう。


 「分かった。行こう」


 何やらテナルの手の内で踊っているような気がして癪であったが、遠乗りは悪くないと思った。


 乗馬する服装に着替えたサラサは厩舎に向った。ミラがすでに馬を用意してくれていた。やや小ぶりながらも肉付きのいい白馬である。サラサの無聊を慰めるためにエストハウス家から送られてきた諸々の品物の中で唯一気に入っているはこの白馬であった。


 「サラサ様、どちらへ行きましょうか?」


 「西へ」


 サラサは間髪容れず答えた。


 「サラサ様、それは……」


 ミラは明らかに困惑した顔を浮かべた。サラサ達がいるメトス地方はエストヘブン領の西端にあり、さらに西へ行くと旧コーラルヘブン領、つまりサラサにとっての故郷がある。現在はエストヘブン領に併呑されているのだが、旧領主の娘がこの地に近づくのはやはりまずいのだろう。


 「そんな顔をするな。冗談だ。北へ行こう」


 サラサが言うとミラに笑顔が戻った。年もまだ近いし同性という存在だからだろうか、テナルなどとは違い幾分か心を開いていた。そのため彼女が辛い顔や悲しい表情をすると、どうしても我儘や嫌味を言えなくなってしまうのであった。


 サラサとミラは連れ立って北へと馬を走らせた。エストヘブン領は、領土のほとんどが平地である。馬を走らせるには絶好の環境であった。


 対してサラサが育った旧コーラルヘブン領は険峻な山岳地帯が多く、馬を軽快に走らせることなどできなかった。いや、そもそもサラサ自身、旧コーラルヘブン領にいた頃は馬に乗る習慣などなかったのである。馬に乗るようになったのは、メトスで軟禁されるようになってからであり、この二年余りでミラについていけるほどに上手くなっていた。


 『それにしても羨ましい土地だ』


 馬を跨りながらサラサは、そのことばかりを考えていた。平地が多く、旧コーラルヘブン領山系から流れ出る河川の水も豊富だ。山岳地帯でろくな農業もできなかった旧コーラルヘブン領と異なり、いくらでも開墾できるはずである。


 しかし、どういうわけかエストヘブン領の主力産業は放牧であり、稲作や畑作に適した環境でありながらそれを主幹産業にすえるような動きがまるで見えなかった。


 エストヘブン領の領主ベストパールは、若い頃は聡明な領主として隣接するコーラルヘブン領にも知られていた。そんな領主でさえ、サラサでも思いつくような単純な領地経営の方策にまで思い至らないというのはどういうことであろうか。


 『長年に渡り同じ領地にいると、現状で満足してそれでいいと思ってしまうんだろうな』


 下手な改革をして失敗でもしようものなら、領地を没収されるか御家自体を取り潰されてしまう可能性もあるのだ。そうなると、余計なことをしないという領主達の考えも一理あると思えてくるのであった。


 『だが、エストヘブンについては宝の持ち腐れだ』


 これほどの広大な土地と、耕作に適した条件を持ちながら何もしないというのはやはりどう考えてももったいなかった。もし、サラサがこの領地の領主であったなら、すぐさま開墾事業を行っただろう。


 『単に開墾するだけでは能がない。開墾した土地の租税は三年間ただにし、積極的に開墾させる。それだけではなく、余剰生産分が発生した場合は買い上げて備蓄庫に入れる。そうすれば飢饉が発生しても領地内ぐらいは賄える……』


 そこまで考えてサラサは空しくなり、思わず馬を止めてしまった。自分が領主なるなど天がひっくり返ってもあり得ないのだから。


 「いかがなさいました、サラサ様」


 サラサが止まる気配を感じたのだろう。ミラも馬を止めて振り返った。


 「何でもない」


 サラサは短く言った。ミラに語ったところで空しさが倍するだけだと思った。

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