記憶のない少年と旅をする少女⑦

 悪魔。天使と人間の共通の敵であり、忌むべき存在。


 その姿は醜悪にして精神は凶暴。人と見れば見境なく襲い、金品があれば間違いなく強奪する。


 仲間意識が皆無で、例えば複数の悪魔の前に金貨一枚を置くと、瞬時に殺し合いが開始される。家族であっても利害が対立すれば即座に排除し、親の敵であっても利害が一致すれば徒党を組むという。


 そんな悪魔達は千年前の聖戦おいて天使と人間の連合軍に敗れ、帝国の遥か北方ワグナーツ山脈より以北に追いやられた。ワグナーツ山脈は天嶮で、悪魔とはいえその山脈を越えるのは不可能。さらには天帝による強力な結界が山脈全体に張られているので、悪魔どもは人間界に絶対侵入できない。太古の神話や歴史書は口を揃えて語っていた。従って千年間そういう世界が保全されてきたため、人間の中には悪魔という存在すら疑う者もいるという。


 しかし、悪魔は存在していて、少なからず人間界に侵入してきている。千年前ならいざ知らず、現在ではすでに結界の効果は薄れてきているし、山脈の地下を掘った人間界まで続くトンネルも複数存在する。エルマもそのトンネルのひとつを通って人間界にやってきたのだった。


 「ふふふ。悪魔だぞ。お前達が恐れ戦く悪魔様だぜ」


 倒れたシードの体に跨ったエルマは、愉快な気持ちで彼を見下ろした。童顔の可愛らしい顔が恐怖に歪んでいく様が楽しみで楽しみで仕方なかった。


 「あ、あのエルマさん。重いんですけど……」


 ところがシードの表情は素のままだった。あまつさえエルマのことを重いとか言い出した。エルマはかっとなった。


 「悪魔だぞ!恐くないのか!」


 恐怖の対象者としては失格な台詞だとエルマは我ながら思った。多少冷静さを取り戻して改めてシードを見てみると、呆れたことに微笑していた。


 「エルマさんが悪魔だなんて信じられませんよ。だって収穫を手伝ってくれたじゃないですか。悪魔なら手伝うどころか、きっと焼き払っていますよ」


 「なっ……!」


 エルマはのけぞった。まさにそのとおりだ。あまりにも正論過ぎて二の句が出てこなかった。


 「がはははははは!お嬢、お前さんの負けだぜ」


 マ・ジュドーが下品に笑う。エルマはその球体を掴み、シードの突きつけた。


 「こいつ、私の使い魔だぞ!見えるか?ほら、こんなのを使役しているのは悪魔しか考えられないだろう!」


 「い、痛い痛い!お嬢、もうちと優しく掴んでくれ……」


 「そんなの怖くないですよ。ははは、面白い顔をしていますね」


 「た……確かに」


 「お嬢。そこは素直に認めるなよ。それに面白い顔ってなんだ!こんな男前に向かって」


 マ・ジュドーを放り投げたエルマは下唇を噛んだ。この少年、見かけによらず相当図太い神経をしている。当初の計画では、エルマが悪魔であることに恐れ戦いたシードが抵抗も無駄と悟って従順になるはずだったのに……。


 いや、シードは悪魔の存在を怖がっているわけではないのだ。エルマを悪魔だと思っていないのだ。


 「仕方ないか……」


 あまり使いたくない手ではあったが、やむを得まい。エルマは右手に力を込めた。ぼっという音を立てて、エルマの右手が炎に包まれた。


 「エ、エルマさん。それは……」


 ごくりとシードの息を飲み込む音が聞こえた。そうだ。これは天使と悪魔しか使えない魔法だ。翼がないから天使ではないと知れている以上、これでエルマが悪魔だと理解するだろう。


 「ふふ、これで分かっただろう。私が……」


 「エルマさん凄い!手品ができるんですね!」


 「だぁぁぁぁぁぁぁぁ!どうしてそうなる!」


 怒りが沸点に達したエルマは、右手に宿った炎をそのまま球状にして近くにあった一本の木に投げつけた。木は瞬く間に炎に包まれ炎上した。流石にシードの顔色がさっと青くなった。これで多少気が晴れたような気が……。


 「エルマさん!か、火事を起こしてどうするんですか!」


 「お前、どうしても私を悪魔だと認めないんだな……」


 もはやエルマは呆れ諦めるしかなかった。シードが青くなったのは、単に炎が燃え広がることを心配しただけのことであり、エルマに恐怖したわけではなかったのだ。


 「エルマさん!早く消さないと……」


 「はいはい。分かったよ」


 エルマは完全に降参した。指をぱちんと鳴らすと、燃え盛る木の上空から滝のように水が落ち、一瞬にして炎を消した。


 「エルマさん、いい加減に重いんですけど」


 炎が消えてほっとした様子のシードがまた重いと言ってきた。そのことについて激昂する気力も残されていないエルマは、そんなに重くない、と呟きながらシードから離れた。


 「エルマさん。これはどういうことですか?僕はこんな所に連れ出して……。それにあなたは何者なんです?」


 起き上がったシードが地面に胡坐をかいて座った。逃げる気はなさそうである。エルマもちょっと離れた所に座った。


 「今更そんな質問するなよな。旅をしている手品師とでも言えば気が済むのか?」


 エルマはますます脱力した。本当に相手していて疲れる奴だ。


 「違うんですか?」


 「さっきから悪魔だと言っているだろうが!と言っても信じないんだろう」


 「だって、悪魔だなんて、神話の世界に出てくる空想上の存在じゃないですか?」


 「お前らはそう教えられているんだな。天使の存在は信じているくせによ」


 「何を言っているんですか。天使様は実在するじゃないですか」


 そりゃそうだ、とエルマは思った。天使は実際に人間界に降りてきて姿を晒している。存在を疑うこともないのだ。


 「もう信じなくてもいいや。旅の手品師でも何とでも思ってくれ。さて、行くぞ」


 「行くって何処へです?ここは何処なんですか?」


 「知らねぇよ。適当に飛んでいたからな」


 「そんな!そもそもどうしてエルマさんは、僕をこんな所へ連れ出したんですか?」


 「質問が多い奴だな。男なら現状をどんと受け入れろよ」


 「そんなことを言われても……」


 「つべこべ言うな!私はお前を奴隷にするために連れ出しんだ」


 「奴隷……」


 今頃になってシードにやや恐怖の色が浮かんだ。エルマと距離を取ろうと後ずさった。


 「い、嫌ですよ。そんなの。僕は帰ります」


 「帰るって、お前、ここがどこか分かっていないんだろう?」


 エルマは意地悪く言った。


 「それに帰るにはそれないの金がないとな。苦労するぜ」


 エルマは金貨の入っている袋を振ってじゃらじゃらと音を鳴らした。


 シードは無言のまま、恨めしそうにエルマを睨んでいた。

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