記憶のない少年と旅をする少女⑤

 天使。その言葉を口にするだけで吐き気がこみ上げてくるほど忌々しい存在。自分達とは決して相容れぬ永久不変なる敵。


 この旅をはじめるにあたり、いつかはそんな機会も訪れるとは予想していたが、まさかこんなにも早く天使と遭遇できるとは思わなかった。


 夕暮れ時になり、収穫に出ていた村人達が続々と引き上げてくる。彼らが曳く台車には収穫された小麦が嵩高く積まれていた。この収穫の成果を今晩降臨してくる天使にご報告申し上げるらしい。


 「ご苦労なこったな」


 エルマにはまるで理解できなかった。自分達が精魂こめて育ててきた食物を、何の助力をしてこなかった天使に見せるだけの儀式。まったく無意味な行為だ。


 「お、お嬢。て、天使だってよ……。どうすんでい」


 マ・ジュドーは明らかに動揺していた。鬱陶しいぐらいに歯をがたがた言わせている。


 「落ち着けよ。どうせこんなど田舎に来る天使なんて下級の中の下級だ。ばれやしねえよ」


 「お嬢は余裕だねぇ。俺、やっぱりびびっちまうよ」


 「はん。肝っ玉小せえな。ちょうどいい機会じゃねえか。我らが敵の天使様をじっくり拝見しようじゃないか」


 恐怖心などはなかった。寧ろ好奇心ばかりが先立ち、さっさとそのご尊顔を拝ましてほしいものだと思った。


 エルマの心情とは関わりなく、天使を迎える準備は着実に進んでいた。教会の前には背の高い燭台が立てられ、収穫されたばかりの麦が束にされ積まれていく。完全に日が没した頃に燭台の蝋燭に火が灯され、昨日のお祭騒ぎとは異なる静粛とした雰囲気が村を包んだ。


 教会に向かって村人達が座る。エルマもその集団に混ぜてもらった。教会の前には法衣に着替えたブラシスがいた。他にも司祭らしく人物が数人いた。おそらくはこの村が所属している教区の司祭だろう。ブラシスが着ているのよりも上等そうな法衣を着ていた。


 「来なさった」


 上空を見上げていた司祭の一人が村人達に聞こえるように言った。それまで雑談に興じていた村人達は一斉に黙り、両手を合わせた。忌々しい限りだが、エルマもそれに倣った。


 星空から一筋の細い光が降りてきた。その光は教会の前にたどり着き、やがて光の中から天使が現れた。


 男の天使だった。なかなかの巨躯で、顔立ちも涼やかな美青年といった感じだった。ただ天使の象徴というべき背中の羽は右側のひとつだけ。所謂、片翼と言われ、最下級の天使とされていた。


 「これはツムギウェル様。ご機嫌麗しゅうございます」


 ブラシスが卑屈なばかりに拝跪した。


 「おお、ブラシス。久しいな」


 対するツムギウェルとかいう天使は尊大であった。


 『馬鹿らしい……』


 エルマは声にこそ出さなかったが、表情は明らかに天使に対する不快感を露にしていた。エルマに言わせれば、天使と人間の垣根をなくせば、よほどブラシスの方がえらい存在である。この村の司祭として村人から尊敬されているし、戦災孤児を喜んで引き受けているし、エルマのような素性が確かでない人物に宿を貸してくれる。片やツムギウェルとか言う天使は、この村の人に対して普段は何もしていない。天使というだけで人々から尊敬を受けているだけなのである。


 そのようなことを思っていると、ツムギウェルがこっちを見た。ややどきりとさせられたが、おくびにも出さず他の村人同様に敬虔なふりをして祈っていた。


 「ほう、今宵は旅人もいるのだな」


 ツムギウェルはエルマの正体に気がついた様子はなかった。やはり下級天使だ。


 「はい。大変心根のよい方で、収穫を手伝ってくれました」


 ブラシスがそのように言った。


 「それは殊勝な。あなたにとってよい旅であることを祈りましょう」


 エルマは無言のままわずかながら頭を下げた。天使如きに頭を下げるなんて屈辱中の屈辱だが、仕方あるまい。


 「村人の皆も収穫ご苦労でした。これも皆が日頃から敬虔であるからこそです。さぁ、改めて慈悲深き天帝様に祈りましょう」


 ツムギウェルの言葉を合図に村人達がさらに頭を垂れて黙祷する。エルマも吐きそうになるのを我慢しながら祈るふりをした。


 「ツムギウェル様。つい一ヶ月前に新しい命が生まれました。ぜひ抱擁を」


 しばらくの黙祷が終わった後、ブラシスが口を開いた。すると、村人の中から赤ん坊を抱いた若い母親がツムギウェルの前に進み出た。母親は緊張しているのか、実にぎこちない歩みであった。


 「子を産み、育てるのは大きな仕事です。ご苦労でした。そして、これからも頑張るのですよ」


 「は、はい」


 母親の声はおかしいぐらいに震えていた。


 「では、赤子を」


 母親が赤ん坊を差し出すと、ツムギウェルがそれを受け取り懐で抱き、さらに翼を丸めて包み込んだ。赤ん坊の周囲が仄かな光に包まれる。村人達からはおおっという歓声があがり、母親は感動のあまりか涙を流していた。


 これが『祝福の儀式』か。エルマは憮然として、その儀式を眺めていた。


 人間達の間では、生まれたての赤ん坊を降臨した天使に抱いてもらうのが習慣になっている。これを『祝福の儀式』といい、新しい生命の誕生を祝福し、これからの息災を祈願するものだという。謂わば、天帝を頂点とする宗教に入るための通過儀礼のようなものである。


 「感動的な光景ですね」


 隣に座るシードが呟いた。そうね、とシードを挟んで反対側にいるマリンダが応じた。エルマは、そうは思わなかったので黙っておくことにした。


 祝福の儀式が終わり、ツムギウェルは偉そうな言葉をひとつふたつ並べた後、再び光に包まれ天へ帰っていった。降臨してから時間して半時ぐらいだろうか。あっと言う間であった。


 「皆さん、お疲れ様でした。ツムギウェル様にご降臨いただき、今年の残りの日々もきっと安泰であることでしょう。収穫はまだまだ続きますが、体調に気をつけて健やかに過ごしましょう」


 ブラシスが閉めの挨拶を行った。ツムギウェルに比べれば遥かに傾聴に値する挨拶である。


 挨拶が終わると、村人達はもう一度軽く黙礼をしてから、片づけを始めた。高く積まれた麦の束を再び台車に載せ、貯蔵庫へと運んでいく。


 「さぁ、僕達も片付けしないと」


 シード達教会の人間は、蝋燭の火を消し、燭台を片付け始めた。手伝ってやってもよかったが、あの天使どもにまつわる道具かと思うと、動く気になれなかった。


 「お嬢。どうだった……って、ここにいるってことは、無事だったんだな」


 天使がいる間、姿を消していたマ・ジュドーがひょこっと現れた。当然、見えているのはエルマだけである。


 「当たり前だろう。使い魔のくせに主人を信じられないのか」


 そういうことじゃねえけどよ、とマ・ジュドーがしおらしく言った。


 「天使なんぞにやられやしねえよ。私を倒すんなら、天帝ぐらいが出てこないと無理だね」


 とは言ってみたものの、これから先のことを考えれば、あまり天使に接触するのはよくないのは確かだろう。もし、万が一にもエルマの正体が知られたら、天使どもは集団になってエルマを追い回すだろう。自分の力に絶対的な自信があるエルマだが、流石に天使の群を相手にするのは避けたかった。


 「長居は無用だな」


 エルマは、マリンダと談笑しながら片づけを続けているシードを見た。魔法によって記憶を封印された謎の少年。しかも自分好みときている。手放してしまうのは惜しい存在だった。そうだとすれば、エルマが取る手段はただひとつだけだった。

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