記憶のない少年と旅をする少女④

 収穫の日の朝。空は一朶の雲もなく、快晴だった。


 カーブ村の人々は朝早くから起き出し、男達は昨日整備した農具を再び倉庫から取り出し台車に載せ、女達は弁当を作るため台所を忙しなく行き来している。カーブ村が一年で一番活気付く日だ。


 まだ太陽が昇らないうちに起きたシードも、作業に取り掛かる。昨日研磨剤で磨いた鎌を取り出し、台車に載せていく。


 「シードはその台車を引いて行ってくれ。私はケーツと空の台車を引いて行くから」


 倉庫から大き目の台車を引っ張り出してくるブラシス。珍しくケーツが手伝っている。


 「分かりました。ケーツ、ちゃんとお手伝いするんだぞ」


 「分かっているよ!手伝わないと晩御飯抜きだもん」


 大声を張り上げて答えるケーツ。晩御飯抜きの件はきっとマリンダに言われたのだろう。


 「私達の今日の担当は三区画の南側だ」


 「はい。先に行っています」


 シードは台車を引きながら、教会の裏手の坂を下っていった。


 「よお、早いじゃないか」


 坂の途中、麦畑の方から上ってくるエルマと出会った。


 「エルマさんも早いですね」


 「ああ。気持ちのいい朝だったから散歩していたんだ」


 エルマが空を見上げた。釣られてシードも見てみると、本当に澄み切った綺麗な青空だ。


 「そういえば今日から収穫なんだな」


 「そうですよ」


 「私も手伝うよ」


 エルマは台車から鎌をひとつ取り出した。


 「え……でも、お客様にそんなことをさせるなんて」


 「ただで泊めてもらったからな。一宿一飯の恩義ってやつだ」


 快活そうに笑うエルマ。男っぽい言葉遣いで、ちょっと怖そうなところがある人だなと思っていたのだが、どうやらいい人のようだ。


 「じゃあ、お願いします」


 「その代わりと言ってはなんだけど、今晩も泊めて欲しいな」


 「分かりました。司祭に言っておきます」


 シードは苦笑した。いい人だけど、ちゃっかりしている人でもあった。




 エルマの鎌捌来は、実に見事なものだった。慣れた手つきでどんどんと麦を刈っていく。これが二度目の収穫作業となるシードなどまるで相手にならない速さだった。これには普段沈着なブラシスも大層驚き、是非とも今夜も一泊していってください、と言うほどであった。


 「エルマさん、農家の出身なんですか?」


 昼休み。シードは、マリンダ手製のサンドイッチを頬張るエルマの隣に座った。この旅をしている同年代の少女に、畏敬の念を含んだ興味がシードの中に生まれつつあった。


 「違う違う。でも、手伝ったことはあるよ」


 エルマは手を振って否定し、その手を水筒に伸ばした。


 「どうして旅をされているんですか?」


 シードがエルマに興味があるのはまさにその点であった。同じぐらいの年齢なのに一人で旅をしている。到底自分では真似できないことにある種の憧れを感じていたのだった。


 「ま、まぁ、そうだな。いろいろあるんだが、見聞を広めたくてな」


 羨ましい限りだった。過去の記憶もなく、おそらくはこの村で一生を終えるであろう自分の身を思えば、エルマの自由さと前途ある未来は、シードにはあまりにも眩しかった。


 「どういう所を見てきたんですか?帝都には行かれたのですか?」


 帝都。多くの田舎に住む若者がその語感の持つ煌びやかさに吸い寄せられるのだが、シードも例外ではなかった。ガイラス帝国の首都にして政治、経済、文化の中心地。帝国に住む者なら一度は訪れたいと言われながらも、ほとんどの人間がその光景を見ることなく一緒を終えるという。


 「帝都はまだだ。いずれは行くつもりだがな」


 「へぇ……羨ましいなぁ」


 「でもよ。お前、記憶がないんだろう?」


 「え、ええ。誰から聞きました?」


 「マリンダだよ。だからさ、お前に記憶がないだけで、ひょっとしたら帝都に住んでいた可能性もあるだろう?」


 「可能性はなくもないでしょうが、記憶がないんで何とも言えませんね」


 そりゃそうだ、とエルマは笑った。


 シードには二年前以前の記憶がない。そのためシードは自分が何者なのかという素性を知らない。そのことについて、シードはそれほど悲観的にはならなかった。不思議なもので、自分の過去とやらがどういうものなのかまるで分からないので、失ったというよりも最初からなかったという感覚に近かったのだ。


 だからエルマの言うとおり、ひょっとしたらシードは帝都に住む貴族の舎弟であったかもしれないし、大商人の息子であったかもしれない。そういう夢想は楽しくはあったが、あくまでも夢想する範囲内のことでしかなかった。


 「お前も旅をしたらどうだ?」


 エルマはシードの心境を読み取ったかのようだった。


 「旅ですか……」


 「そうだ。そうすれば、案外お前の知っている奴に会えるかもしれないぜ」


 「それもいいかもしれませんが、今は収穫の方を急がないと」


 エルマの提案は強烈な磁力を持ってシードを引き付けた。しかし、だからといってこの村を離れて旅に出ることには躊躇いを感じていた。


 「ふうん。なら、作業を続けましょうかね」


 エルマは最後の一口を口の中に入れた。激しく租借しながら立ち上がり、服についた土を払い落とした。


 「そうですね。今晩は天使様が祝福にいらっしゃいます。できる限り収穫して今年の実りをご報告しましょう」


 「はあん?天使ねぇ」


 天使という言葉を口にしたエルマは、奥歯に何か挟まったような微妙な顔になった。

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