記憶のない少年と旅をする少女③
エルマはシードに導かれて教会の内部に入った。知識として教会のことは色々と知ってはいたが、実物の教会を見るのは初めてである。
「意外と普通だな。私はもっと悪趣味なごてごてしたものを想像していたんだけどな」
シードが司祭を呼ぶために奥に引っ込んだのを確認してから、エルマは率直な感想を独りごちた。エルマが読んだことのある書物では、教会は嫌味のある白い大理石造りの、荘厳という名を借りた過重な装飾で施された建築物と書かれていた。そういう意味では、この教会はまるで逆であった。
「だからと言って居心地はよくねえな。見てみろよ、お嬢」
「あん?ああ、あれか……」
ここは講堂なのだろう。長椅子が幾つも並んでいる正面に彫像が鎮座していた。フードのついた法衣姿の彫像。フードの下はにこやかな笑顔をした老人の顔があったが、その笑顔は胡散臭く、見ているだけで吐き気を催してきた。特徴的なのは背中から左右二枚ずつ生えている四枚の羽根。人間達の絶対的信仰の対象にして、忌々しい天使共の頭目、天帝だ。天帝のみが四枚の羽根を持っていた。
「やっぱ、やめようぜ、お嬢。いくら銅像とはいえ、あんな奴とひとつ屋根の下にいたくねえよ」
「うるせえ。だったらお前だけ外にいてろ」
「やれやれ、そこまであの少年にご執心するとはね。惚れたのかい?」
「違うよ、馬鹿。宿がないし、ちょっと気に入った奴がいただけだ!」
マ・ジュドーを地面に叩きつけて踏みにじっていると、シードが司祭と思しき男と年若い少女を連れて戻ってきた。
「私がここの司祭のブラシスです。おもてなしはできませんが、どうぞごゆっくりしていってください」
「エルマです。ありがとうございます」
「ぷぷ、お嬢がありがとうございますだとよ。ひーひーっ、世界が終わっちまうよ」
マ・ジュドーがけたたましく笑う。エルマはさらに力強くマ・ジュドーを踏みにじりながらも、事前に用意していた嘘の素性を語った。ブラシスという司祭は根から人がいいのか、エルマの言うことをあっさりと信じてくれた。
「では、ごゆっくりなさってください。マリンダ、案内して差し上げなさい」
はい、と答えたのはブラシスの隣にいた少女だった。自分には到底及ばないが、なかなか可愛い少女だった。
「また後でね、シード」
「うん」
マリンダという少女は、エルマを案内するのに先立ち、シードに声をかけた。そのシードを見る瞳に、甘い好意のようなものをエルマは感じた。
「へぇ、これは面白そうだな」
そう呟きながらエルマは、マリンダの後に続いた。
エルマとマリンダは講堂を出て、階段を上った。マリンダが言うには二階と三階が居住空間らしく、客室は三階にあるらしい。
「階段が急なので気をつけてくださいね。あ、お食事はどうします?」
マリンダは積極的に話しかけてくる。きっとこうして旅人を案内する機会が多いのだろう。
「さっき屋台で食べてきたよ。それよりもさ……君はあの少年のことが好きなのか?」
マリンダが段を踏み外しそうになった。動揺しているということは確定らしい。
「な、何を言っているんですか!」
「否定はしないんだな」
「そ、それは……」
「隠しなさんな。傍目からみりゃ誰だって分かるよ。きっとあの司祭も気づいているはずさ」
「冷やかさないでください」
その言葉を最後にマリンダはしばらく無言を通した。それでも自分の任務には忠実らしく、客室までは案内してくれた。
「ありがとう。お嬢さん」
マリンダは何も言わず頭を下げた。顔を真っ赤にしている。ひょっとしてそのままシードに会いに行くつもりだろうか。
「ちょっとお話していきなよ」
エルマにしてみれば、マリンダの動揺を沈静化させるために気を利かせたわけではない。ただ単に、シードに好意を寄せているこの少女なら、色々な情報を引き出せると思ったのだ。
マリンダは躊躇いを見せたが、最終的には小さく頷いてエルマに促されるままに客室に入っていった。
エルマはマリンダの恋の相談に相談に乗る振りをして、シードに関する情報を色々と聞き出した。その中で一番驚いたのは、シードが記憶喪失だということだった。
「記憶喪失とはね……」
「はい。この教会に来たのが二年前で、それ以前の記憶がないんです」
「二年前ってことは、神託戦争が終わった年か」
神託戦争。人間同士の馬鹿馬鹿しい戦争のことも、エルマは風聞で知っていた。
「私もシードも戦災孤児です。きっとシードは、その戦争の最中の事故か何かで記憶を失ったんです」
「どうなんだろう。私は医者じゃないから分からないが、記憶なんてものはそんなに簡単に失えるものなのか?」
「私も気になって、もっと都会のお医者様に診てもらうように言ったんですが、シードは取り合ってくれませんでした。別に今のままでも困らないから別にいいって」
エルマは思わず笑いそうになった。記憶が戻らなくてもいいなんて、大した度胸をしている。
『こいつはますます欲しくなってきたぞ』
マリンダには悪いが、さらに強くシードを旅の道連れ、下僕として連れまわしたくなってきた。
しかし、気になるのは記憶喪失のことである。
『おい、球体。いるか?』
エルマは思念でマ・ジュドーに話しかけた。
『いるぜ。目の前によ』
マ・ジュドーはマリンダの頭の上に乗っかっていた。
『人間の記憶って、そう簡単に消えたりするものなのか?』
『さあな。外的衝撃や心的負担で記憶を失ったりするってのは聞いたことあるが、そんな症例がそうそうあるとも思えんけどな』
そうだろうな、とエルマは思った。
「あ、あの……。エルマさん、私そろそろ」
「ああ、引き止めて悪かったな。ありがとうよ」
頭を下げて出て行くマリンダ。その後姿を見送った後しばらくぼっとしていたエルマは、空気を入れ替えようと窓を開けた。祭は行われていて、喧騒が聞こえてくる。
「調子狂うな、お嬢。欲望に忠実なお嬢らしくねえな。気に入ったんなら、さっさと襲っちまえよ」
「うるせえ」
ぶっきらぼうに言いながら、エルマは人ごみの中からシードを見つけた。牛の串焼きの屋台の前でマリンダと楽しげに談笑していた。
「かぁぁぁぁぁ!人の恋路を応援する人のいいお姉さんになっちまってどうするんだよ!それでも魔界の皇女様かよ!嘆かわしいぜ!」
「一々やかましい!」
エルマはマ・ジュドーを掴み、外に向って思いっきり放り投げた。ひゃぁぁと叫びながらマ・ジュドーが夜空に消えていく。
「二度と帰ってくるな」
窓を閉めたエルマは、そのままベッドに倒れこんだ。しばらく眠ることにした。
真夜中。エルマはぱちりと目を覚ました。外を見てみると、祭はすっかりと終わっていて、静かで真っ暗であった。
「さてと……」
マリンダが客室は三階と言っていたから、この教会の住人は二階で眠っているはずだろう。エルマは神経を集中した。この建物の構造が頭の中に浮かんでくる。丁度真下にも部屋があるらしい。
エルマは床をすり抜け、真下の部屋に移動した。ベッドで眠っていたのはマリンダであった。
「はずれか」
そのまま壁をすり抜け隣に部屋に移動した。そこに寝ていたのはシードだった。
「おっ、当たりだな」
エルマはベッドの傍らに立った。とても安らかないい寝顔だった。
「へっ、お嬢。いよいよ本気になったか。いいよ、いいよ。見ていてやるよ」
いつの間にか帰ってきていたマ・ジュドーがぷかぷかと浮いていた。
「ちっ。帰ってこなくてもいいのによ。どいていろ。怪我をするぞ」
「怪我?」
疑問符を浮かべながらマ・ジュドーが移動する。それを見届けたエルマは、シードの額に手を置いた。するとシードの額に円形の紋章が光り輝いて浮かび上がってきた。
「お嬢、こいつは……」
「ああ。魔法陣だ」
「見たことない形しているな」
「そうだな。解除してみようとしたが駄目だ。幾重にも魔法がかけられていて時間がかかる」
「まさか、この魔法陣が少年の記憶を封印しているんじゃ……」
「分からんが、たぶんそうだろうな」
エルマはシードの額から手を離した。額にあった魔法陣が消えた。
「何者だ、こいつは?魔法で記憶を封印されているなんて大した御仁じゃねえか」
「さあな。でも、こいつはやっぱり面白そうだ」
エルマはシードの眠るベッドから離れた。
「おいおい、お嬢。襲わないのかい?」
「しばらく様子見だ。まだまだ旅は長いんだぜ」
ひひっと笑ったエルマは、そのままシードの部屋を後にした。
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