第23話 始まりました、新人研修 2
「あーっ。悔しい。悔しい。悔しい。悔し~い!」
部屋の中でセラフィーナの怨嗟の唸りが延々と響き渡る。
否、唸っているのは部屋の中だけではない。帰りの馬車でも他人の目を憚ることなく、大声で散々喚き散らし、頭を掻きむしるほどに悔しがっていた。
怒るのは自分の不甲斐なさ。
ランドールは言うに及ばず、指導役のカイルまでもが、ロープを使ってのマスト登りは必須条件だと言ったのだが、結果は散々たるもの。
張り切って訓練に臨んだセラフィーナだったが、僅か1日で鼻っ柱を根元から折られてしまった。
「カイルやランドール、ほかの連中にますと登りができて、どうしてわたしだけが出来ないの!」
「貴族のご令嬢が船のマストに登る必要などないと存じますが」
聞きようによっては自己中な癇癪をするセラフィーナを慮ってか、マージェリーが「ふつうはあり得ない」と注釈を入れる。
だが、それを素直に受け入れるには、セラフィーナの鼻っ柱は高すぎた。
「トリートーンの船員はみんな登れるのよ。ならば、わたしは絶対に登らないといけないの!」
マージェリーの気遣いにも逆ギレで当たる始末。
こうなると、もうフォローのしようなどある筈もない。
「絶対にの根拠が分かりかねますが?」
と、訊いたところで全くの徒労。
「絶対にって言ったら、絶対になの!」
まるで子供の駄々のよう。拳を固めて支離滅裂に絶叫する始末。理由もへったくれもなく、ただただ喚くばかりであった。
「そこまで絶対と仰るのであれば必要ということにいたしますが、訓練を初めたばかりのお嬢様がいきなり登れるとは思えませんが」
「じゃあ、マージェはいつ登れると思う?」
皮肉られたから皮肉で言い返すと、マージェリーは「そうですね」と腕に顎を載せて暫し思案する。
「少なくても、今のままならお嬢様がマスターするのは、永遠に無理でしょうね」
「それ、どういうこと?」
氷のような冷たい言葉に反発すると「分かりませんか?」とさらに冷たい言葉が返ってくる。
「分からないから訊いているの」
「まあ、そうですよね」
「バカにしているの?」
売り言葉に買い言葉で返すと「とんでもない」と、バカにするどころか憐れんだような表情。
「聡明なお嬢様が、そこまで我を見失うとは……」
「能書きは良いから、さっさと言ってよ」
じれたセラフィーナに「それでは」と、マージェリーのメガネがくいっと持ち上がった。
「まず最初に伺いますが、丸1日訓練してもマスト登りは、全くもってダメでしたよね?」
開口一番。ぐうの音も出ないほどに残酷な現実を突きつける。
「それは……」
「違いますか?」
お目付け役として同行していたので、でまかせや誤魔化しは効かない。セラフィーナの腕力ではロープを張った状態が保持できず、結果は散々たるもの。
「はい」
悔しそうに口をへの字に曲げての返事に「なら、結構です」マージェリーは頷く。
「ですが、それは仕方がないことです。何しろお嬢様は、今日初めてマストに登る訓練をお受けになられたのです」
現状を噛みしめるように伝えるが、セラフィーナは「いいえ」と首を横に振る。
「それでも、わたしは「しかたない」では済まされないの」
マスト登りは訓練の第一歩。初っ端から躓くようではトリートーンの船主になるなど夢のまた夢、迎える未来はボールドウィン家の没落しかない。
故に絶対に成功しなければならない。
悲壮な覚悟なセラフィーナに向かって「あのですね」とため息をひとつ。
「そもそも、それが間違いなのです」
残念な子でも見るように、ため息をついてダメ出しする。
「対策の第1歩は現実を知ることから始まります。逃げちゃダメなんです。けど」
「けど、何よ?」
「激昂して頭に血が上っているのは、お腹が空いている証拠です。そんな時はロクな判断ができません」
「はぐらかさないでよ!」
かんしゃくを起こすセラフィーナに、マージェリーが子供をあやすように「とんでもない」と反論。
「事実、今お嬢様はマストに登れないことに苛立っているだけで「何故、登れないのか?」を考えようとしていませんよね?」
問われて反論に窮する。
悔しいことが先に立って「何故」に考えが及んでいなかった。
「以前の……そうですね、甲板掃除をムチャ振りされたときのお嬢様なら、怒るよりもどうやって掃除をするかを先に考えていました」
「あれは、マージェたちが掃除のスキルをいっぱい教えてくれたから」
甲板掃除ができたのだと、言うよりも先に「いいえ」とマージェリーが首を横に振る。
「お嬢様が一生懸命考えて、何とかしようと努力をする。だから使用人たちもお嬢様の意志に応えようとするのです。さあ、腹が減っては何とやら。お食事のご用意ができていますので、食堂のほうに参りましょう」
何か有耶無耶に誤魔化されたような気もするが、確かにお腹は空いている。
「分かったわ」
苛立ちは一時中断して、マージェリーの勧めに従い、先ずは夕食をとるべく食堂に赴いた。
とはいえ……
気分もそぞろで、料理を味わっているかと問われたら、答えは否。
空腹を満たすために補給をしているだけでしかない。
お抱え料理人が丹精を込めて作った食事は、交易を営む伯爵家だけに山海の豊富な食材で本来ならとても美味しいはずなのに、今日に限ってはまるで砂を噛んでいるようで味わっているからは程遠い。
機械的に手を動かして、皿に盛られた食事を口に運び、咀嚼してただお腹に収めているだけ。
メニューの豪華さはともかく、やっていることは家畜の給餌と大差ない。
張り詰めた空気が伝播するのだろうか、普段なら楽しく談笑するであろうエドワードもアメリアも、セラフィーナを遠慮するかのように押し黙ったまま。それどころか煩い盛りのジェームズまでもが、ひと言も話しかけることなく、ただ食べることだけに専念していた。
家族全員が一堂に会しているというのに、広い食堂でただ食器の触れ合う音だけがこだましていた。
重苦しい沈黙が支配する、そんな中。
「セラ」
今日は体調が良いからと、久しぶりに夕食を同席したモーリスが声をかけてきた。
「こっちの料理も食べてごらん。料理長が頑張ったんだろうね、ムースが絶品だよ」
夕食を味わっていない妹を気遣うように「美味しいから」と勧めてくる。
兄の好意にさすがに仏頂面で応えるという訳にもいかず、セラフィーナも「はい」と頷きフォークを付ける。
多分、美味しいのであろうが、正直味が頭に入ってこない。兄の手前美味しそうな表情は作ったつもりだが、巧くいっている自信はない。
案の定「う~ん」と、困ったような苦笑いを見てしまう。
「食欲までは意識が回らない? でも、美味しいものを美味しく味わえないだなんて、それはセラらしくないよ」
「それだと、まるでわたしが、食い意地の塊みたいなんだけど」
「ああ、これは失言だったね」
おどけた口調で「レディーに言うべきことじゃないね」としまったとばかりに頭を叩く。これにはセラフィーナも唇を尖らせて「もう」と言うしかない。
まったく以て如才がなく、たった一言で張り詰めていた食堂の空気を解き解す。
途端、便乗するかのようにエドワードが「まったくだ」と形だけの苦言を呈し、アメリアが「セラはもっと食べていいのよ」と助け船を出す。
「おぉ、主よ。僕の罪をお許しください」
モーリスが天を仰ぎ神に懺悔を唱える。セリフ回しが芝居がかっているのは、理由を熟知しているからだろう。ここまでされると、セラフィーナも乗っからないと許してくれないだろう。
「2人とも、お兄様をいじめちゃダメよ」
「おやおや。僕はセラに助けて貰ったのかい?」
「どうやらそのようだな」
「兄としては些か残念ってところね」
モーリスの軽口に呼応するようにエドワードとアメリアが後に続き、形だけとはいえ、やっと食卓に団欒が戻ってきた。
とはいえ、やはり腫物なのだろうか、意図的に訓練の話題が避けられ、当たり障りのない雑事に終始していた。
違う意味で針の筵になりつつあったその時、モーリスが「そういえば」と急に話の舵を切る。
「慣れない訓練で、ずいぶん苦労しているみたいだね?」
無難な会話から一転、直球ど真ん中で訊いてきた。
タブーに触れたとばかりに両親の顔色が蒼くなる中、セラフィーナは心配をかけまいと「ううん」と首を横に振る。
「そんなことないわよ。至って順調よ」
カラ元気で大丈夫と答えると、モーリスは「そう」と優しく微笑む。
「大変だろうけど、頑張るんだよ。何かあったら相談してくれたらいいから」
「うん」
モーリスの励ましに頷いて答えるが、病でベッドに縛り付けられた兄に、マスト登りの方法など相談することはできない。
もちろん両親に訊くなど論外。
真顔でエドワードが「何でも相談してきなさい」とは言っているが、口にしたが最後。
上から圧力をかけて、有耶無耶にするに決まっている。
それではまったく意味がない。
「訓練は大変だけど、至って順調よ」
現実とは真逆の報告をして、上辺だけほどほどに談笑をしながら食事を終えると「疲れているから」と嘘をつき、半ば逃げ帰るように部屋に戻った。
気は重いまま。
ではあるが、多少の成果はあったようで。
食事を摂って空腹を満たした所以か無意味な苛立ちは収まったようで、マージェリーから「顔色が少し良くなりました」と褒め言葉を貰った。
「ありがとう」
その程度の返事をするゆとりはできたが、肝心の問題は当然のことながら全然解決していない。
ただし血糖値が上昇して頭に血が回るようになったためか、思考は幾分現実的にできるようになったみたいで、庭師に頼んで木登りの手ほどきをして貰うのが妥当だろうななどと思えるようになっていた。
あとはひと言、頭を下げて頼み込むだけというその時。
まるでそのタイミングを見計らったかのように「入っても良いかな?」とモーリスが扉をノックしてきた。
わざわざ訪ねてきてくれた兄を門前払いにもできない。
「どうぞ」
と了承の返事をすると、扉が開いた早々「セラはホントに困った妹だね」と、困った顔でいきなりの説教口調。
これにはさすがのセラフィーナも面食らった。
「お兄様。いきなり何を」
言いだすんですか? 言うよりも早くモーリスが「メっ!」とまた叱る。
「何かあったら僕に相談しておいでって言ったよね?」
食堂での一件を持ち出すが、だからといって兄に心配事を負担させるような話をすつもりはない。
「食堂でも言ったでしょ。訓練は至って順調よ」
問題ないとばかりに相談を突っぱねるが、聡い兄には取り繕った嘘は通じなかった。
「ダメだよ、隠し事をしちゃ」
頭をくしゃくしゃと撫でられ、あっさりと嘘を見抜かれる。
「セラが嘘をつくときは声のトーンが変わるんだよ。ま、ウソが付けない正直者ってことだよね」
「ひどーい。それって、褒めていないでしょう?」
「うん」
あんまりな評価にセラフィーナは拗ねると、モーリスは「でもね」とフォローに動く。
「僕のことを気遣ってでしょ? そこがセラの良いところだよね」
優しい顔で「違う?」と問う。
「……うん」
遠慮がちに返事をすると「そうだよ」と大きく頷く。
「でも、兄としては頼ってくれないと少し寂しいな」
「でも、お兄様に余計な気を煩わせたくないし」
「気持ちは嬉しいけれど、そこは兄のプライドを気遣ってくれないかな?」
軽く貶してフォローして持ち上げる。気が付かぬ内にわだかまりは消え、いつの間にかモーリスの懐に抱かれている。
「素直なところがセラの一番の魅力なんだ。だから、僕に話してごらん」
緩急織り交ぜたモーリスの天然たらしスキルにセラフィーナが抗えるはずもなく、言葉を交わすうちに誘われるまま「あのね」と今日の出来事を口にしていた。
マスト登りの訓練をひとしきり説明し終わると、モーリスが「なんだかな~」と微妙な引き攣り笑いを浮かべていた。
「お爺様が始めたあの訓練。まだやっていたんだ」
懐かしいよりも呆れたというほうがしっくりくる口調。過去にトラウマがあるような雰囲気を醸し出す。
驚いたのはセラフィーナ。
多分にして初耳な出来事だ。
「お兄様は訓練の内容を知っているの?」
思わず腰にロープを巻く仕草をして、モーリスを問い詰めると「まあね」と苦笑い。
「5~6歳の頃かなぁ。お爺様におねだりして、トリートーンに遊びに行ったことがあるんだ」
「遊びに行ったことがあるの? お兄様が?」
「おいおい、僕はいちおう初孫なんだよ。それくらいの優遇はあるよ」
時期にして15~6年前、セラフィーナが生まれた前後くらいか。アメリアが育児にかかりきりになるのので、未だ甘えたい盛りの幼いモーリスを、ウイリアムが代わりに面倒を見たのだろう。
それはそれとして、モーリスがトリートーンに乗船経験があったのは初耳だ。
「それで?」
思わず身を乗り出して尋ねると「セラはホントに現金だね」と、また頭をくしゃくしゃに撫でられる。
子供の頃の話をするのは抵抗があるのか「結構恥ずかしいんだよ」と前置きを付けながら、トリートーンに乗った時の話をしてくれた。
「まあ、何せあのお爺様だからね。いきなりマストに連れてきて「男の子だったら登ってみろ」だよ」
木登り同然の行為をいきなりやれとは、ウイリアムらしいといえばらしいが、聞くだけでも無茶苦茶な要求。とても幼児相手にするものではない。
「それで結果は……って、訊くまでもないわね」
5~6歳の幼児が、ロープ1本で全体重を支えれるわけなどない。
結果は凡そ想像できるというもの。
案の定モーリスが肩を竦めて「セラの思った通りだよ」と、てんでダメだった失敗談義を語ってくれた。
「お爺様の命令で水夫が背中を持っていてくれた時はともかく、自分ひとりじゃ1歩も登れやしない。どうしてもできないからって泣きだしたら、水夫の誰かが「これだったらどう?」ってある方法を提案してくれたんだ」
「どんな方法?」
有益な情報に思わず身を乗り出すと「まあまあ、落ち着いて」と宥めすかす。
「それをちゃんと教えに来たんだから」
相談を受ける甲斐があるだろう? と茶目っ気たっぷりにウインクすると、その時水夫が考案してくれた方法を「あの時、水夫さんはね」と丁寧に伝授した。
「どうかな?」
「ありがとう。これなら上手くいくかも知れない」
気遣ってくれた兄に礼を述べると「お役に立てて光栄だよ」と満更でもないだろうと胸を張る。
「ま、特訓は必要だけどね」
何事にも卒のない兄は、最後に釘を刺すことも忘れていなかった。
そらから数日後。
草木も眠る丑三つ時……
ではないが、夜の帳が支配する中。
「うふ。うふふ。ふふふふふ」
ボールドウィン邸の裏庭で不気味な笑い声が響き渡る。
裏庭に設えられた太いポールにしがみ付きながら、セラフィーナが月に向かって吼える。
「待っていなさいよ、ランドール。明日こそは目にもの見せてやるから!」
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