第22話 始まりました、新人研修 1
「という訳で。今日からお館様のご息女セラフィーナ様が、訓練のためにこのトリートーンに乗り込まれる。先代ウイリアム様の跡を継ぐべく幹部候補ではあるが、今は訓練生という身分なので特別扱いはしない。オマエらもそのつもりでいるように!」
あの園遊会の翌日。
トリートーンの主甲板では、ランドールが乗組員全員に対して訓示を述べていた。
挨拶と何とかは長い。の例に漏れず、ランドールの訓示も意外なほど長く、セラフィーナの紹介だけでは終わらない。
喋っているほうは気持ちいいかも知れないが、聞いているほうは結構苦痛なのは世の東西・身分の上下に関係なく共通で。
「ねえ、マージェ」
案の定。退屈したセラフィーナが隣に控えるマージェリーの肘を小突いてきた。
「ランドールって、みんなに向かって訓示するほど偉かったの?」
偉かったの? って。
昨日までメインで突っかかってきたのだから想像はつくと思うのだが、興味がなけれければ気にしないのが、いかにもセラフィーナらしい。
「通常は船長・副長の順に偉いのですが、先日調べましたところトリートーンには先に相当する肩書の者が不在です。掌帆長はそれに次ぐ位なので、実質的に現状では最上位になりますね」
人事の相関を簡単に説明すると「そうなんだ」と眠気を押さえての返事。多分、暇つぶしに訊いただけでどうでもよかったのだろう、それが証拠に口元がむずむずと動いている。
「それよりも、欠伸はお控えください」
「だって、眠いんだもの」
マージェリーの小言も馬の耳に念仏。昨夜に疲労が堪っているのかも知れないけれど、もう少し当主令嬢の威厳を持ってくれないものかと思う。
「流れから見るに、挨拶はもう間もなく終わりますから、あと少しだけ我慢してください」
それにしても……
居並ぶ水夫たちを見てマージェリーは思う。
「この服装は……酷いですね」
何、これ? とばかりに頭を抱えたくなってしまう。
一応は水夫の格好ではあるが、士官連中でも皺だらけでよれよれだったり生地が黄ばんでいたりと、だらしなさは下町の童といい勝負。
水夫に至っては汚れ継ぎ接ぎは当たり前。鼻をつままないととんでもない臭いが襲ってくる、というか話に聞く海賊船の乗組員のほうが未だ小奇麗ではないだろうか。
ウイリアム様は彼らにいったいどんな躾をしていたのやら。伝統はともかく、身なりの上ではボールドウィン家に相応しくないのは明らか。
何よりも美しくないし、臭い!
名実共にセラフィーナが船主になったあかつきには、絶対に粛清しようと心に誓うのであった。
そんなマージェリーの野望はともかくとして……
「で。さっそくだけど、何から始めたらいいの?」
めでたく新米幹部候補生になったセラフィーナは、教育担当? のランドールに尋ねる。
「まさか、また甲板掃除?」
挑発的な誘いに「まさか」とランドールが左右に手を振る。
「掃除は基本だから、機会を作ってまたやって貰うけれど、今日はしねえよ」
同じことをやっても意味がないと甲板掃除を否定した。
「そもそも、お嬢は幹部候補なんだ。部分的なことを精通するんじゃなく、この船全体を知ってもらわないと困る」
「ふ~ん。この間とは扱いが違うわね」
「だ~か~ら~、この間の話は終わったことだ」
セラフィーナも蒸し返すつもりはなく「そうね」で終わらす。
「とはいえ、当面は幹部じゃなくて候補生だから、基本をみっちり叩き込む。お嬢には水夫の訓練と同じことをして頂くからそのつもりで」
「望むところよ」
胸を張って答えた途端、始まったのがマストの登り降りだった。
「帆を張るのにしても見張りをするにしても、マストに登らなきゃ始まらねー」
野太い声で宣言して、高々とそびえるマストを指すと、部下の水夫がロープを使って器用に登っている。
「まさか。あれをお嬢様にさせるつもりじゃないでしょうね?」
まるで軽業師のような作業に、マージェリーが割って入ったが、ランドールは「その、まさかだ」と譲る気がない。
「あれが出来ないようじゃ話にならんな」
さも当然のように短く言い放つが、甲板掃除を要求したときのときのような威圧感はない。むしろ諭すような口調。
「つまり、本当に必要な技量なんでしょう?」
確認をするようにセラフィーナが尋ねると「そうだ」という返事。
「トリートーンに乗っている連中は、全員一度はマスト昇降を体験している」
航海長や操舵手など直接操帆にかかわらない人間でも、下積みの水夫時代に必ずやっているのだという。
「帆の張りかたも判らないようなヤツに、船を任すことなんかできないからな」
構造を知らなければ指揮はできない、確かにその通りで理に適っている。
「じゃあ、やるしかないわね」
分かったと了承する。
「要領は見れば分かるだろう? じゃあ、いっぺんやってみてくれ」
さっそくとばかりに顎をしゃくってランドールが登ってみろと促すが、それはムリというもの。
「やってと言われて、いきなりできる訳ないでしょ」
無茶を言わないでと首を振ると、逆に「おいおい」とランドールが突っ込みを入れる。
「絶対できないだろうと無茶振りをした甲板掃除をあれほど見事にこなしたのに、基本の基本のマスト登りができないって、そりゃおかしいだろう?」
解せんと首を傾げるが、セラフィーナにしてみたら解せないのは、むしろランドールの思考のほうだ。
「あのねえ。掃除はメイドに訊けば、やりかたくらい分かるわよ。彼女らはプロだから、頼めば懇切丁寧に教えてくれるわ。いくら先祖は海賊だといっても、伯爵家の館にマスト登りができる使用人がいると思って?」
理詰めで迫ると「うっ」と唸る。
「確かに……」
納得せざる得なかったのだろう。渋面ながらも首を縦に振った。
「訓練なんだから、やれと言う前に、登りかたをちゃんと教えなさいよね」
セラフィーナのもっともな要求に、暫し考えたうえ「分かった」と頷くと、ニキビの目立つ若い水夫を「おい、カイル」と呼び付ける。
「オマエ、お嬢にマストの登りかたを教えてやれ」
ランドールの一方的な命令に、カイルが「えー」と露骨な不満顔。
「俺、甲板員ですよ。マスト登りなら掌帆の連中が適任じゃないスか?」
不満云々は別にして、いたって真っ当に思える抗議をランドールは「いや、ダメだ」といともあっさりと斬り捨てる。
「基本の基本を教えるんだ。掌帆の連中は慣れてはいるが、それ故ヘンな癖が付いているから、初心者の見本には向いていない。だから、船の中でいちばん若手のカイル、オマエが適任だ」
一見、筋が通っているように見えるが、おそらくいちばん下っ端のカイルに指導(お守り)役を擦り付ける方便なのだろう。
事実「なんスか、それ?」とゴリ押しの屁理屈にカイルも食ってかかる。
もっとも不満を爆発させたからといって、地位も経験も上手のランドールに勝てるはずもなく。
ああだこうだと宥めたり賺したりしながら良いように丸め込み、最後には「頼んだぞ」と肩を叩くとセラフィーナの指導役を丸投げした。
「全く。少しは協力的になったかと思ったのに、相変わらずいい加減な御仁ですね」
後ろでマージェリーが、指導役を丸投げしたランドールを激しく詰っっているが、それはそれ。
それよりも上手に教えてもらうほうが大事と、不貞腐れ気味のカイルにしなを作って「よろしくお願いネ」と言った途端、態度が激変。
「ハイっ、お嬢様! 俺にお任せください!」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、力いっぱい快諾する。実に分かりやすい性格をしていた。
要は可愛い女の子に弱いという、思春期の男なら当然ともいえる性だった。
「良いですか? こんな風にロープを2重輪にしてマストと体を括り付けるんです」
下心? はともかくとして、いざ教える段になるとランドールの読みは意外に正確で、カイルの指導は懇切丁寧なうえ、基本に忠実で実に分かりやすかった。
「うん。それで?」
セラフィーナが合の手を入れると「次はですね」と両足を広げマストに抱きついた。
「ロープと体とは腕一本分くらいの隙間を作り、下側のロープを腰の位置にしたらもたれるようにピンと張ります」
「そんな感じね」
「で、上のロープを顔くらいの位置に持ってきて、腕で引っ張った状態で登るんです。後はそれの繰り返しです」
デモンストレーションの時と同じく軽快にマストを登っていく。慌てて目で追っていくと、わずか数分で最上部にあつらえられた見張り籠に到達する。
「じゃあ、降りますよ」
掌帆員じゃないから専門外だといいながら、降りる速度はさらに早い。
ロープの張りを巧みに調整しながらスルスルと滑るように、登りの半分ほどの時間で甲板まで降りてきた。
「と、まあ。こんな感じです」
往復で10分も使っていないだろう、まさに軽業師といった早さ。驚かずにはいられない。
「うわー。スゴイ、スゴイ!」
見事な昇降に思わず拍手する。
褒め慣れていないのだろう。称賛の拍手に「いえ、それほどでも」と、どうして良いのか分からずしきりに照れるが、セラフィーナは「そんなことないわよ」と全否定。
「ロープ1本であんな高いところまであっと言う間に登るなんて、ウチの庭師のだれも……ううん、それどころか木こりにだって簡単にできないわよ」
ひとしきり称賛すると「まあ、そうでしょうね」と、聞きようによっては傲慢な返事。
「普段はこんな方法で、マストの登り降りなんてしませんから」
「えっ?」
驚くように訊き返すと「これ、緊急時の訓練なんです」とのこと。
ふだんの登り降りは、マストを支えるシュラウズと呼ばれる横静索に支えられたラットラインズを使う。
「言ってしまえば縄梯子なんで、比較的安全に登り降りできるんですけど、登りはともかく降りるのに時間がかかっちゃうから。緊急時の見張りとかだと間に合わない時があるんです」
「例えば?」
「そうですね。突然、敵船が攻めてきたりとか、砲戦でシュラウズが使用不能になったときなんか」
いやいや、ふつう交易船で砲戦などあり得ないだろう。図らずもトリートーンの出自が分かってしまう訓練メニューだった。
「そんな訳で、これ。トリートーンに乗りこんだら、いの一番にやらされる訓練なんです」
カイルの答えに「ああ、なるほど」と納得した。
「だから、ランドールがマストに登らないと始まらないと言ったのね」
「見た目は大変ですけど、コツを掴めばお嬢様でもできますから」
「ホントに?」
「本当です。試しにやってみてください」
言われてロープを渡されるが、見るのとやるのとでは天と地ほどに状況が違う。
「はい」
勇ましく返事をしてロープを掛けたはいいが、一歩も登る前にロープがずり落ちる。
「うぅぅ、登れなぃ」
「ロープをピンと張って。この状態をキープするのがコツなんです」
カイルがアドバイスをくれるが、聞いただけでできるなら、誰も苦労などしない。
下のロープは体重をかけてもたれたらピンと張れるが、上のロープは難しい。どうにかして張れても力が弱いのか、登ろうとした途端ズルズルと落ちてくる。
「俺が押さえているから頑張って」
カイルがサポートに入ってみても、何とかできるのはその時だけ。手を放した瞬間マストからずり落ちて、甲板に大きく尻もちをついてしまう。
「もう1回やってみてください」
頑張るが、1歩目はできても後が続かない。結局ズルズルとずり落ち、甲板で強か腰を打ち据える。
コツもさることながら、大元の身体能力がカイル達とはまるで違う。
顔を真っ赤にして日暮れまで頑張ったが、結局2歩目に到達することはなかった。
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