全失病

荒海雫

第1話

 言葉を失ったら。感情を失ったら。存在を失ったら。君はどうするのだろう。


「病院を出ましょう」

 と提案をしてきたのは佳織だった。

 僕は必死で止めようとしたが、中々その思いは伝わらないようだった。

「当然空にも来てもらうからね」

 えー……。

「どう言おうと絶対付いてきてもらうわよ」

 佳織は窓を眺めた。その瞳が少しだけ揺れていることに僕は気づいた。


 作戦決行はそれからすぐのことだった。病室を颯爽と抜け出し、駐車場のカブに乗った。

 免許を持っているのか謎だったが、

「とばすわよ~」

 佳織の性格なら免許の有無はあまり関係ないのかもしれない。

 僕は不安を抱きながらその後ろに乗った。キーはいつの間にか佳織が盗みだしていた。

「あ、あなたたち!」

 玄関で慌てる看護師を尻目にカブは走り出す。

 今までお世話になりましたー!、と声をあげる。この言葉が届いたかはわからないが、頭を下げておいた。


 目的地はどこ?、と尋ねる。

「……」

 気づいていないようだ。

 僕は佳織の肩を少しつつく。佳織は察した様子で、思案した後答えた。

「目的地は学校よ。私たちが昔いた場所」

 確かにこの道は学校へと続く道だ。

 だが以前とは大きく異なる景色だった。人の手がしばらく加えられてないためか、草は思うがままに生い茂り、ゴミは野ざらしになっている。道に横たわる人やフラフラとさまよう人の顔に生気はない。比喩でもなんでもなく、眼前に広がるのは滅んだ街の景色だった。

 どれもこれも、あの病のせいだ。


 二年前、とある病が現れた。それはまず人から言葉を奪う。そして次第に感情が奪われる。最期には、存在を失ってしまう。ある日忽然と、姿を消してしまうのだ。

 病気の進行は人によって違い、ずっと言葉のみ失ってしまった人や、発症して二日で存在を失った人もいるという。それに規則性はなく、いつ自分が消えるのかその恐怖に怯えながら、人は日々を生きている。

 世界中の医学者が治療法に臨んだが、根本的な治療は確立されることは今日としてなかった。いや、今や医療機関さえ機能しているのか怪しい世界だ。もう研究をし続けている人はいないのかもしれない。だがいつしかこの病気の名前だけが、知れ渡っていった。全失病、と。

 病気が蔓延し始めて最初の一年は地獄だった。所詮人は動物なのだと知った。隠してた本性、衝動が露呈し、秩序の世界はあっけなく崩壊した。僕は家族も、友人の多くも亡くしてしまった。今生きていることがわかる知人は、佳織だけだ。

 僕たちが先ほどまでいた病院は、この街で唯一機能している施設だろう。病院というか、拠点というのだろうか。そこに集う人々が協力し、ここまで生き残ってきた。でも僕たちはそこを抜け出した。後悔は不思議と無かった。


 道路が分断されていたり、野蛮な人々を回避したりと、そうこうしている内にようやく学校へとたどり着いた。もう空は茜色に染まっている。

「さ、中に入りましょ」

 佳織はカブを乗り捨て中へと入っていく。僕もそれに続いた。

 学校は、まあ予想通り、荒れ果てていた。よからぬ輩が根城としていないことだけが救われたけど。

「ここだね」

 佳織は一つの教室の前で止まった。

「初めて病気に遭遇した場所ね」

 ここが僕たちの始まりであり、終わりでもあったのだと思う。


「沢城」「はい」「柴咲」「はい」

 なんてことのない出席確認の時間。今日も退屈な日が始まるのかと、窓の外を眺めている。

「新海」

 自分の名前を告げられ、僕は頬杖をつきながら返事をする。

「はい」

「……新海」

「……? はい」

 そこまで小さな声ではなかったはずだが、聞き返された。

「おい、新海、居るんなら返事をしろ」

「してますって」

 そう言っても教師はまるで反応しない。まるでこちらの声が一切届いていないかのように。

「全く……鈴木」

「はい」

「……おいさっきから何なんだ!」

 教師は名簿を教卓に叩きつけた。乾いた音が響く。

「あまり大人をなめるもんじゃないぞ」

「あ、あの……」

「どうかしましたか?」

 あの様子は正気じゃない。そうすぐに悟った。

「な、なんだなんとか言ったらどうだ……?」

 生徒の数人が近づいていく。

「や、やめろくるんじゃない! くるなあ!」

 教師は体を丸め込み、それ以降どんな言葉をかけても動かなくなった。

 これが全失病の初期症状だと知るものは、当時まだ少なかった。


「ここが私の席」

 その後ろが僕の席だった。

 窓沿いの席だった。僕らは昔のようにそこへと座る。

「そして私は後ろを振り向いて度々話してた」

 同じように佳織は振り返る。

「……今も話せたらよかったのにな」

 全失病の初期症状、人の言葉がわからなくなる。佳織は僕どころか、人の言っていることが理解できない。自分は喋ることはできても、それでは言葉を失ったのと同義だ。

「これ見てみて」

 佳織が取り出したのは、赤色の髪留めだった。

「小学生のとき、空がプレゼントしてくれたもの。私、嬉しくってずーっと思ってたんだ」

 知らなかった。その髪留めは佳織のことだから、すぐに捨ててしまったものだと思っていた。

「もしかしてちょっと引いた?」

 そんなことはない、と頭を振る。

「……そっか。どんな顔をしてるのか、見たかったよ」

 次の症状の段階、人の感情がわからなくなる。人の顔に靄がかかり、感情を読み取れなくなる。自分の言葉も感情を伝えても、それが返ってくることはない。

「いやだなぁ」

 佳織が小さく呟く。

「私このまま居なくなるなんて、いやだよ」

 末期症状の一つ、それは肌が驚くほどに白くなること。佳織の肌は透き通る程に白い。それこそいつか消えてなくなってしまいそうな。

「ねぇ私のこと覚えていてくれる?」

 存在を失う。それは誰の記憶からもいなくなること。誰からも忘れられて、まるで最初から居なかったかのように、消えてしまう。残るのはその人物が一番大切にしていた物だけだという。

「最後にちょっとだけ、伝えてみようかなって思います」

 佳織は笑顔を浮かべた。泣きそうな、笑顔だった。

「きっかけはなんてことないんだけど――」

 突然、佳織の言葉がわからなくなった。ノイズのようになって聞こえなくなる。そうか、これが全失病の言葉を失うということか。

 それにしても、今だとは。

「――」

 わからない。何を言っているのか全く。佳織はこんな中で生きていたんだ。

「――」

 頼む、あと少しでいいんだ。ほんのちょっとでいいから。

「――そういうわけで」

 ようやく鮮明になった時、それは聞こえた。

「ずっとずっと前から、好きでした」

「……! 僕も――」

 途端、カツンと音がする。見れば赤い髪留めが落ちていた。その髪飾りをとる。

 揺れるカーテンに斜陽が差し込む教室で、僕はただ一人立っていた。

 なぜ、どうしてここにいるのか、全くわからなかった。

 ただただ髪留めを見つめて、流れた涙だけがきっと知っているのだと、僕は感じた。

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全失病 荒海雫 @arakai

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