明けない夜

 わたしが蓋然性物質を吸収する規模と速度は日に日に増していた。モニターでは、中央放送局が、人類滅亡のカウントダウンを伝え続けている。もう人類の半数が死んで、蘇らなかった。たぶん、わたしのせいだ。

 もちろん、わたしを殺すためのあらゆる手段が取られたけれど、どれも無意味だった。大概は、施設に近づいただけで不幸な目に遭うことになったし、もはやわたしに近づけるのは、エルピスしか居なかった。わたしは世界中の人々のために、自殺も試みたけれど、道具は壊れ、薬が効かず、とにもかくにもそんなことはできなかった。そして、追い詰められた人々の最後の人民投票で悲しいことが決まった。

 投票の結果、エルピスは殺されることになった。彼はわたしと共に居られるだけの蓋然性物質を蓄えている。だから、彼を殺せばわたしを消せるだけの…それは根拠の無い妄想だと思うけれど…蓋然性物質が得られる、もしそうでないにせよ、滅亡は先延ばしにできるだろうという考えだった。なんて馬鹿な考えだろう。つまり、わたしの不幸体質はどこまでもわたしを不幸にしてくるということだった。その放送がされた時、わたしはエルピスと2人で結果を眺めていた。彼は何も言わなかった。


「…そんなこと、させないわ。」


 わたしがそう言って立ち上がると、エルピスは不安そうな表情でわたしを見つめてきた。やっぱり、いつでも綺麗な瞳。わたしはもう、わたしのせいで誰かが犠牲になるのはまっぴらごめんだった。大量の蓋然性で私を消せるんなら、エルピスを殺さなくたって”パンドラのはこ”があるじゃない。パンドラのはこはこの地下施設の真上、世界議事堂の中心部に安置されているって聞いたことがある。そこに行ってはこを開けるのよ。そして…わたしが消えれば、世界は元通りだわ。


「パンドラのはこに行きましょ。」


 そう言うと、エルピスの顔が少し曇った。相変わらず綺麗だったけれど、やっぱりこういう表情は美しい顔が台無しになるわね。彼は、たぶんわたしが何をしようとしたのか、察したのだろう。彼は不安そうな声で言葉を発する。


「…きみは、もしかして…。」


「ううん、死にはしないわ。わたしの不幸体質を消してやるのよ。さ、行くわよ。」


 ツカツカと歩き始めるわたしの後ろを、彼は黙って歩いた。強大過ぎる不幸体質は、すべての警備装置に不具合を起こした。いつもは恐ろしくて何にも触れなかったけれど、こんな時ばかりは役に立つわね。進み続けるわたしを止められる設備は一つも無かった。当然ながらでエレベーターは使えなかったから、地下1万mからひたすら階段を上り続けた。上り続ける間、わたしもエルピスも、一言も言葉を交わさなかった。


***


 ずっと歩き続けて、ようやく、パンドラのはこにたどり着いた。エルピスは平然としているけれど、わたしは運動不足が祟って息も絶え絶えだ。議事堂の中央にある祭壇に安置されたはこは、想像していたよりもずっとずっと小さな、手のひらサイズのみどり色に輝く美しい装飾が入ったはこだった。わたしは、どことなくエルピスに似ていると思った。なんとか呼吸を整えてから、わたしは彼に目配せして、はこを開ける。…その中身は、空だった。


「どうして…なんで…」


 全身の力が抜けて行って、わたしは膝から崩れ落ちた。はこが床に落ちて、かしゃんと音を立てる。エルピスが床に落ちたそれを拾い上げて、口を開く。


「やっぱり、そうだと思ったんだ。薄々…ね。悲しませたくなかったから、この目で確かめるまで言えなかったけれど…。おそらく、ぼくはパンドラのはことつながっている。パンドラのはこはぼくなんだ。」


 言っていることの意味がわからなくて、言葉が呑み込めない。わたしが何も言わない内に、エルピスはそのまま独りで話続ける。


「ぼくは政府に作られた存在だ。きっと、ぼくが政府から与えられた本当の存在意義は”君から人類を守ること”だったんだ。ぼくは体内にある特別製のコアのおかげで、人類には不可能なほど大量の蓋然性を持ち続けられる。ぼくは君の傍で他者の蓋然性を吸収させないだけの必要なそれをパンドラのはこから引き出し続けていたんだ。でももう、それも終わりだ。きっと、いずれは僕の中にある蓋然性も尽きてしまうだろう。」


「もう…どうしようもないのね。」


「うん…でもそうなる前に、許されるのなら、ぼくはきみの願いを叶えたい。ぼく自身が思うぼくの存在意義…たった一つの望みは友達としてきみの願いを叶えることなんだ。」


 エルピスは笑顔を見せる。なんて悲しくて、綺麗な笑顔なんだろう。わたしは生まれてから、今この瞬間まで、本当に自分が願ったことなんて何一つなかった。与えられるだけの人生で、そして、今も、自分で決められることなんて何一つ無かった。


「さあ、願いを言って。」


「なら、わたしを消して…。そうすれば、みんな元通りよ…。」


「本当に、それでいいんだね?」


 エルピスの瞳が一瞬、少しだけ悲しいみどり色に輝いた後、彼は取り出した短剣で自らの腹部を引き裂いた。


「な、なにしてるの!ちょっと!!」


 彼の内臓が飛び出して、血が噴き出す。彼の瞳と同じみどりの文様が入った白い服が彼の血でまだらに染まっていく。わたしはあわてて痙攣する彼の身体を必死に押さえ付けて、彼の腹から飛び出した大腸を腹の中に押し込めようとする。だめだ。飛び出した腸はわたしの小さすぎる両の手だけじゃ戻すことが出来ない。彼は口からごぼごぼと血を吐き出しながら、口を開く。


「ぼくの心臓は特別製…きみに影響されないように、蓋然性を凝縮させたコアが入っている…きみの願いを叶えるには、ぼくの持っている蓋然性だけじゃあ足りないんだ…ぼくのコアも使うんだ…」


 あっという間に彼の体温が下がっていって、すぐに何も喋らなくなった。引き裂かれた彼の腹部を必死に押さえつけながら、わたしはしばらく泣きじゃくった。どうしていつもこうなんだろう。どうしてわたしは何も守れないんだろう。それ以前に、わたしが手に入れられたものなんて、何一つ無かった。ひとしきり叫んで、泣いた後、気を取り直す。わたし、彼の言う通りにしなきゃ。そうでないと、エルピスがかわいそうだもの。

 わたしは血まみれの彼の腹の中をまさぐった。指先に硬い鼓動の感触があって、それを引きずり出す。わたしの右手の中に収まった、そのみどり色に輝く小さな宝石心臓を取り出して抱きしめる。の肌はもう蒼白く冷たくなりはじめているけれど、のこのみどり色の心臓だけはまだ温かく鼓動し続けていた。わたしは涙を流しながら、瞼を閉じる。彼の心臓が眩く輝いて、光がわたしを包んだ。何も見えないけれど、わたしの願いを叶えるための蓋然性物質の中に、彼の温かみを感じた。わたしは彼のおかげで、苦しまずに死ぬんだと思った。


 ねえ、エルピス。あなたの願いはなんだった?わたし、最後くらい、あなたの願いを叶えてあげたいわ。今、わたしは生まれて初めて誰かの願いを叶えたいと思った。きっとエルピス、あなたはずっとこんな気持ちでわたしと居てくれたのね。わたしはもう消えると思うのだけれど、その前に、せめて一つだけ…もし、もし、神様がこの世にいると言うのなら、聞いてほしいわ。わたしの人生でたった一つの、初めての、たった一度限りのお願いを。彼の願いを叶えてほしい。それだけでかまわないから…。景色が、意識が真っ白な光に包まれて、やがて緞帳が降りるように、わたしの全てが、暗闇の中へ堕ちて行った。


***


 その日、世界中央放送局は、突如多量の蓋然性物質がパンドラのはこに戻ったことを伝えた。つまり、人類滅亡のシナリオはとりあえず収束した。ほとんどの人類は生き返ったし、街は元通りになった。しばらくして調査団が議事堂と地下施設に調査に行くと、パンドラのはこの傍に、少年と少女の遺体が寄り添うように横たわっていた。世界の滅亡を招く寸前だったとはいえ、自らの消失により滅亡を止めた2人に対し、多くの人々が怒りや悲しみ、同情が綯交ぜになった、複雑な感情を抱いた。

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