匣の中に残ったもの
「今日でぼくの仕事は終了だ。」
次の日、センセイは部屋に来るなり、決まった期間が過ぎたから明日からはもう来れないと言った。当然のことだった。この施設にいる職員はみんな、定期的に入れ替わる必要がある。
「…こほん。それで、今日はぼくから君にプレゼントがあるんだ。…さ。入りなさい。」
センセイがそう言うと、音もなく壁が動いて扉が現れる。扉が開くと、色白の端正な顔立ちの少年が立っていた。背がわたしより少し高くて、長めの金髪が、光に照らされて輝きを放ちながら
「…こんにちは。はじめまして。ぼくの名前はエルピス。きみの名前は?」
わたしは、彼の問いかけを受け流す。
「みんな、パンドラって呼ぶわ。本当の名前は…もう誰にも教えてないの。意味が無いから。」
「意味がない?」
彼の
「わたし、ガイゼンセイを吸収してしまう体質なの。つまり途轍もない不幸体質ってこと。わたしと一緒に居ると不幸になるのよ。両親も親類も、ただの知り合いまでみんな死んだわ。わたしと一緒にいるとあなたもそうなるのよ。そんなことはできないでしょ?だから意味が無いの。」
わたしはそう言いながらベッドに腰かける。センセイがわたしを見つめて、にこにこしながら口を開いた。
「エルピスはきみの傍に居ても大丈夫だ。政府に陳情して、人民投票で君に友達を与えることが決まってね。彼はきみの傍に居ても大丈夫なように特別製の心臓を持って生まれたんだ。まあ…それなりな苦労はあったが…。とにかく、そういうわけだから心配しないでいい。」
「え…ああ…そうなの…。」
エルピスの
垂れ流しの報道番組では、この施設の職員の何名かが精神的な疾患を患ったことを伝えていた。
***
それから毎日、エルピスはここへ来た。大したことは話さなかったけれど、彼はいつも優しくて明るかった。わたしは嬉しいような不安なような感覚がずっと消えなかった。わたしは…このことをどう受け止めるべきなのかが、わからなかった。なにせわたしのことを恐れないというだけでも初めてのことだったから。
今日も、彼がやってきた。不意に天井を見上げた彼の眼が、
「ねえ、どうして毎日わたしのところに来てくれるの?」
彼は毎日同じことを聞かれても、いやな顔一つせずに答えてくれる。
「それはね、きみと友達になりたいからだよ。」
「いやよ。わたしはあなたに心を許していないもの。」
本当は…友達が出来て、嬉しいくせに…。わたしの冷え切った心根は、意地悪な言葉ばかり口から吐き出させる。モニターでは今日の報道番組が、施設周辺の住民が体調不良を起こしたことを伝えている。
次の日来た時も、彼はずっと、いやな顔一つせず、にこにこしてわたしを見つめているだけだ。どうしていつもにこにこ笑っていられるのだろう。わたしはいつもあなたに嫌われることばかりしているのに。そんなわたしの心の中を察したかのように、彼は口を開く。
「きみはぼくを追い出さない。ぼくにはそれだけで十分なんだよ。いきなり仲良くなんか、なれなくたっていいんだ。その気になったら、傍に呼んでくれれば、さ。ぼくはきみと友達になりたいんだ。そして、君の願いを叶えたい。それがぼくの存在意義だから。」
どんなにわたしが意地悪に振舞おうとも、彼は気にしない。まるで傷付くってことを知らないの。何日もそうしている内に、わたしはついに折れて、彼がわたしの傍に居てくれることを許し…ううん、ようやく受け入れることができた。付けっ放しのモニターでは、中央放送局が、蓋然性の枯渇による人類滅亡のシナリオについて騒ぎ立てている。画面端に常に映してあるインターネットコミュニティでは、その眉唾な都市伝説についていろんな意見が飛び交っていた。
***
「エルピス、何かお話して。」
わたしは大きなくまさんのぬいぐるみを抱きしめながら、彼に話しかける。彼は、今日も優しくわたしを、わたしだけを見つめてくれている。この退屈な部屋の中で、
彼は視線を彼の爪先に落として、脚を交互に伸ばしたり、畳んだりしながら、話題を考えてくれているようだった。エルピスは横顔も愛らしい。彼を見つめていると、本当退屈しないわ。彼は思いついたような顔をして口を開く。
「お話か…そうだね、じゃあ…うん。これがいいかな。パンドラは…さ、人って死ぬ時、どうなると思う?」
「うーん…?難しいことは知らないけど、転生を望んで死を迎えると、肉体からこれまで使用した蓋然性物質が放出されて”パンドラの
「うん。それだけじゃなくて、肉体の容量一杯に蓋然性物質を吸収した時も、人は死ぬんだよ。みんな寿命って呼ぶけど。でも、そういうことじゃなくて。」
「どういうこと?」
「つまり…怖いのかな?悲しいのかな?それとも辛いのかな?」
「うーん…、うーん……わからないわ。でも、そうね…きっと、わたしが死ぬときはとっても苦しむと思うわ。」
「なぜ?」
「わたし…不幸体質だから。ママが死んだ時、最後の言葉は”あなたはしあわせになって”だったって聞いたわ。わたしはママを殺してしまったから、きっとそれは叶わない。わたしが叶えたいことはどんなことも叶わないのよ。」
エルピスはとっても悲しそうな顔をして、わたしの目を見つめている。なんて綺麗な顔をしているんだろう。今にも泣きそうな顔。彼はわたしの頬を優しく撫でて、抱きしめて…そして耳元で囁いた。
「ぼくがいるよ。どんな時も。ぼくはきみの友達だから。ぼくはきみが悲しまないようにしてみせる。」
モニターに職員向けの一斉送信の通知メールが飛んできた。わたしの蓋然性吸収速度が上昇を続けているため、全職員が一時的に施設から退避することが決まったようだった。自分では気づかなかったけれど、このままわたしはこの世界の全てを喰いつくしてしまうのだわ。けれど、為す術はなかった。ただ、隣にエルピスが居てくれることだけが救いだった。
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