匣の中に残ったもの

「今日でぼくの仕事は終了だ。」


 次の日、センセイは部屋に来るなり、決まった期間が過ぎたから明日からはもう来れないと言った。だった。この施設にいる職員はみんな、定期的に入れ替わる必要がある。


「…こほん。それで、今日はぼくから君にプレゼントがあるんだ。…さ。入りなさい。」


 センセイがそう言うと、音もなく壁が動いて扉が現れる。扉が開くと、色白の端正な顔立ちの少年が立っていた。背がわたしより少し高くて、長めの金髪が、光に照らされて輝きを放ちながらなびいている。少し細い狐目にみどり色の瞳が、彼の金髪にとてもよく似合っていて、まるで高価な宝石のようだ。角度によって、彼の瞳はみどり色にも見える。わたしはまるで、お人形か彫刻を眺めているようだと思った。彼は静かな落ち着きのある声で言葉を発する。


「…こんにちは。はじめまして。ぼくの名前はエルピス。きみの名前は?」


 わたしは、彼の問いかけを受け流す。


「みんな、パンドラって呼ぶわ。は…もう誰にも教えてないの。意味が無いから。」


「意味がない?」


 彼のみどりの瞳が、困惑したような輝きを見せる。センセイはこの子にわたしのことを説明していないんだろうか?


「わたし、を吸収してしまう体質なの。つまりってこと。わたしと一緒に居るとになるのよ。両親も親類も、ただの知り合いまでみんな死んだわ。わたしと一緒にいるとあなたもそうなるのよ。そんなことはできないでしょ?だから意味が無いの。」


 わたしはそう言いながらベッドに腰かける。センセイがわたしを見つめて、にこにこしながら口を開いた。


「エルピスはきみの傍に居てもだ。政府に陳情して、人民投票で君に友達を与えることが決まってね。彼はきみの傍に居ても大丈夫なように生まれたんだ。まあ…はあったが…。とにかく、そういうわけだから心配しないでいい。」


「え…ああ…そうなの…。」


 エルピスのみどりの瞳がわたしを真っ直ぐに見つめている。わたしは彼を見つめながら、地下1万mのこの退屈な檻の中で友達ができるのもまんざらでもないかという気持ちと、何一つ自分で決めることなく与えられるだけだという現実への憤りで、胸の中にどろどろとした言い様の無い不快感を抱えていた。自分だけの美しい王子様を得たという下世話な感覚が、自己嫌悪を煽ってきた。センセイは少しだけため息を吐いて、”今日は挨拶だけだから。いきなり親友になろうだなんて思わなくてもいい。明日からは彼がここに来るからね。何を話すかくらいは考えておきなさい”と勝手なことを言い残すと、彼を連れて部屋を出て行った。

 垂れ流しの報道番組では、この施設の職員の何名かが精神的な疾患を患ったことを伝えていた。


***


 それから毎日、エルピスはここへ来た。大したことは話さなかったけれど、彼はいつも優しくて明るかった。わたしは嬉しいような不安なような感覚がずっと消えなかった。わたしは…このことをどう受け止めるべきなのかが、わからなかった。なにせわたしのことを恐れないというだけでも初めてのことだったから。

 今日も、彼がやってきた。不意に天井を見上げた彼の眼が、みどりの輝きを放つ。いつもと同じくベッドに腰かけるわたしに、彼は隣に座ってもいいかと聞いてくる。わたしが何も声を発せずに頷くと、いつもと同じく彼が隣に座る。彼が隣に座ると、ふわっと甘い香りがする。それで、わたしは昨日と同じことを聞く。


「ねえ、どうして毎日わたしのところに来てくれるの?」


 彼は毎日同じことを聞かれても、いやな顔一つせずに答えてくれる。


「それはね、きみと友達になりたいからだよ。」


「いやよ。わたしはあなたに心を許していないもの。」


 本当は…友達が出来て、嬉しいくせに…。わたしの冷え切った心根は、意地悪な言葉ばかり口から吐き出させる。モニターでは今日の報道番組が、施設周辺の住民が体調不良を起こしたことを伝えている。

 次の日来た時も、彼はずっと、いやな顔一つせず、にこにこしてわたしを見つめているだけだ。どうしていつも笑っていられるのだろう。わたしはいつもあなたに嫌われることばかりしているのに。そんなわたしの心の中を察したかのように、彼は口を開く。


「きみはぼくを追い出さない。ぼくにはそれだけで十分なんだよ。いきなり仲良くなんか、なれなくたっていいんだ。その気になったら、傍に呼んでくれれば、さ。ぼくはきみと友達になりたいんだ。そして、君の願いを叶えたい。それがぼくの存在意義だから。」


 どんなにわたしが意地悪に振舞おうとも、彼は気にしない。まるで傷付くってことを知らないの。何日もそうしている内に、わたしはついに折れて、彼がわたしの傍に居てくれることを許し…ううん、ようやく受け入れることができた。付けっ放しのモニターでは、中央放送局が、蓋然性の枯渇による人類滅亡のシナリオについて騒ぎ立てている。画面端に常に映してあるインターネットコミュニティでは、その眉唾な都市伝説についていろんな意見が飛び交っていた。


***


「エルピス、何かお話して。」


 わたしは大きなくまさんのぬいぐるみを抱きしめながら、彼に話しかける。彼は、今日も優しくわたしを、わたしだけを見つめてくれている。この退屈な部屋の中で、みどりの瞳だけは見つめ続けていてもずっと飽きない輝きを持っている。

 彼は視線を彼の爪先に落として、脚を交互に伸ばしたり、畳んだりしながら、話題を考えてくれているようだった。エルピスは横顔も愛らしい。彼を見つめていると、本当退屈しないわ。彼は思いついたような顔をして口を開く。


「お話か…そうだね、じゃあ…うん。これがいいかな。パンドラは…さ、人って死ぬ時、どうなると思う?」


「うーん…?難しいことは知らないけど、転生を望んで死を迎えると、肉体からこれまで使用した蓋然性物質が放出されて”パンドラのはこ”に帰っていくって聞いたわ。だから、蓋然性物質は枯渇することが無い…はずだったのよね。わたしが現れるまでは。」


「うん。それだけじゃなくて、肉体の容量一杯に蓋然性物質を吸収した時も、人は死ぬんだよ。みんな寿命って呼ぶけど。でも、そういうことじゃなくて。」


「どういうこと?」


「つまり…怖いのかな?悲しいのかな?それとも辛いのかな?」


「うーん…、うーん……わからないわ。でも、そうね…きっと、わたしが死ぬときはとっても苦しむと思うわ。」


「なぜ?」


「わたし…不幸体質だから。ママが死んだ時、最後の言葉は”あなたはしあわせになって”だったって聞いたわ。わたしはママを殺してしまったから、きっとそれは叶わない。わたしが叶えたいことはどんなことも叶わないのよ。」


 エルピスはとっても悲しそうな顔をして、わたしの目を見つめている。なんて綺麗な顔をしているんだろう。今にも泣きそうな顔。彼はわたしの頬を優しく撫でて、抱きしめて…そして耳元で囁いた。


「ぼくがいるよ。どんな時も。ぼくはきみの友達だから。ぼくはきみが悲しまないようにしてみせる。」


 モニターに職員向けの一斉送信の通知メールが飛んできた。わたしの蓋然性吸収速度が上昇を続けているため、全職員が一時的に施設から退避することが決まったようだった。自分では気づかなかったけれど、このままわたしはこの世界の全てを喰いつくしてしまうのだわ。けれど、為す術はなかった。ただ、隣にエルピスが居てくれることだけが救いだった。

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