パンドラの匣
QAZ
その日は雨が降っていた
西暦2140年、人類は個人の願望を人工的に叶えるための蓋然性向上物質を発見した。世紀の大発見だった。それを凝縮・保管する技術…”希望の
そしてたった今、人類は滅亡の危機に瀕していた。わたしは血まみれの彼の腹の中を両の手でまさぐり、その心臓を取り出して抱きしめる。彼の肌はもう蒼白く冷たくなっているけれど、彼のこの心臓だけはまだ温かく鼓動し続けていた。わたしは涙を流しながら、瞼を閉じる。瞼の裏側に鮮やかに、彼との思い出が通り過ぎていく。最初に彼と出会ったのは、そう…センセイの仕事が終わった日だった。
***
わたしはその日、初めてやって来たその部屋の床に寝転がり、無機質な壁と天井をぼうっと見つめていた。床のひんやりした感触が背中に伝わる。壁に埋め込まれたモニターでは気象予報士が天気の様子を伝えている。地上は雨が降っているらしく、モニターからはザアーザアーと雨音が聞こえてくる。もう直接は聞くことのない音だと思うと少し寂しくなった。どことなく角張った部屋は白すぎるくらい真っ白な光に照らされて、真っ白な壁を更に白くする。ザラザラッとした白い壁には不規則に溝が並んでいて、その奥の暗闇から薄らと橙の光の明滅が見える。壁際にあるクイーンサイズのプリンセスベッドには、たくさんのぬいぐるみが積まれていた。
不意に、部屋の壁が音もなく上下左右にスライドし、奥から扉が現れた。扉からセンセイが現れて、わたしを見ると”ここが今日からの君の部屋かい?綺麗なところじゃないか”と言った。モニターで垂れ流しの報道は、わたしが地下1万mにあるこの施設に入所したことを伝えていた。人々の安堵と喜びの声がモニターからぼたぼたと床に落ちる。
センセイはカウンセラーだ。彼は今時どこから手に入れたのか、ちょっと錆び付いたパイプ椅子にぎしっと腰掛けて、やわらかなカウンセリングチェアにもたれ掛かるわたしにまた、思い出話をさせる。どうせ毎回同じ話をするのだから、聞かずとも良いと思っているのだけれど、思い出話は精神をケンゼンに保つためには必要な事だというのがセンセイの口癖だった。
それで、わたしはまた、何度話したかわからない話を繰り返す。生まれた時のこと、ママ、パパ、親類、知人に至るまでが死んだ時のこと。センセイは一通り話を聞くと、最後にいつも同じ質問をする。
「なにか、欲しいものは?次に来る時までに用意するから。」
「…希望の
わたしは断られるのを知っていて、いつも同じ返答をする。わたしの欲しいものなんか絶対に手に入らない。いつだって、きっとこれからもだ。ただ、その日はいつもとは違う答えが返ってきた。
「それは…すまない。代わりに君が寂しくないように、ぼくからのプレゼントを用意しよう。楽しみにしていたまえ。」
センセイはそう言うとそそくさと部屋を出て行った。
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