第21話 悪役令嬢は呼ばれ方を気にするようです
グストン商会は平民街のなかでも、貴族街近くの、いわゆる高級住宅街の一角にその本店を構えている。
五階建てのその建物は、公爵令嬢として大きな屋敷で過ごしていた頃はわからなかったが、平民として平屋の新居を見たあとなら、その立派なたたずまいに思わず圧倒されてしまう。
身分というものは、自己を支える重要な因子の一つだ。
これまで公爵令嬢として、それにふさわしい、堂々とした振る舞いをしてきたアリシア。
しかし、平民となってしまった今、本当に自分はこの立派な建物に入っていいのか、自信が持てなくなってしまっていた。
普通の貴族令嬢なら、ここまで急激に小心者になることはないだろう。
貴族であった頃と同じように、堂々と店内に入っていくに違いない。
しかし、アリシアの場合、前世の記憶があるせいで、平民になるということに抵抗がなく、その分平民に染まりやすかった。
心の隅で、後日出直そうかしら、と尻込みしてしまいそうになっているが、メリアとの幸せな未来を想像して、グッとお腹に力をいれ踏みとどまる。
(グストン商会がいくら大商家とはいっても、その客は貴族だけでなく平民も含まれるわ。
私がお店に入っても問題はないはず)
深呼吸をして、覚悟を決めたアリシアが踏み出したそのときだった。
「アリシア様?」
「ひぅっ!」
突然名前を呼ばれたせいで、思わず変な声が漏れる。
振り替えると、果たしてそこにいたのはロバートだった。
「……ロバートさん?」
「アリシア様!
ご無事でしたか!」
「え、ええ」
興奮した様子で詰め寄るロバートに、アリシアは戸惑う。
「アリシア様が学園を退学になっただけでなく、ローデンブルク家を放逐されたと聞いたときは、驚きと心配で胸が張り裂けそうでしたが、元気な姿を見ることができて安心しました」
本当に心配してくれていたのだろう。
安堵しているロバートを見ていると、胸が温かくなった。
「それは、ご心配をおかけしました」
「それにしても、アリシア様がレイネス殿下を押し倒しただなんていう、根も葉もない噂が流れるなんて。
そんなこと、アリシア様に限ってあるはずがないのに。
そうですよね、アリシア様?」
根も葉もあるだけに、アリシアを信じている、ロバートのまっすぐな視線が痛い。
「あのロバートさん?
ここでは少々目立ってしまうので、どこか別の場所に……」
興奮して大声で話すロバートに、何事かと通行人が視線を向けている。
話題が話題なだけに、あまり注目を浴びるのは、居心地が悪い。
「私としたことが興奮のあまり、つい。
失礼しました。
どうぞ、こちらへ」
ロバートの案内で応接室へと通される。
着の身着のままの放逐だったので、アリシアが現在身にまとっているのは、公爵令嬢として愛用していたドレスのうちの一着だ。
その立ち居振舞いは洗練されていて、周りから見れば、まさか平民だとは思わないだろう。
「先ほどは失礼いたしました。
ところで、どうしてうちの商会の前に?」
お茶を用意してくれた従業員を下がらせたロバートが尋ねた。
いざ本人を前にすると、切り出しにくい話題だ。
もし、面と向かって今後の取引を断られでもしたら、と思うと躊躇ってしまう。
ロバートとは、それなりに親しい関係を築いてきたつもりだ。
だからこそ、断られたときに受けるショックは大きい。
商売とは、情を優先するべきものではないということは理解している。
大商人の息子であるロバートも、商人として、アリシアとの取引に価値があるか評価するはずだ。
アリシアとの繋がりより、商売を優先するであろうことは想像に難くない。
それでも、もしかしたらと期待してしまうのは、夢を見すぎているのだろうか。
しばしの間、顔を伏せて、言い淀んでいたアリシアだったが、覚悟を決めた表情でロバートを見据えた。
「先ほどの様子だと、既にご存じのようですが。
この度、私、アリシアはローデンブルク家を放逐されて、平民となりました。
ロバートさんには、魔道具のことでお世話になってきましたが、これからも同様にお付き合いしていただけるのか、不安になってしまい、こうしてお尋ねしに来た次第です」
アリシアの思い詰めた雰囲気にあてられ、表情を強ばらせていたロバートだったが、アリシアの話を聞いて、力を抜いた。
「なんだ、そんなことでしたか。
私は、いえ、グストン商会は、アリシア様が貴族だから取引をしていたわけではありません。
アリシア様の提案する商品に魅力を感じたから、商売をしていたのです。
ですから、たとえ平民になろうが、アリシア様の提案する商品に魅力を感じる限り、取引をこちらから破棄することはありませんので、どうぞご安心を」
微笑むロバートを見て、アリシアは胸を撫で下ろした。
どうやら、新たな職探しをする必要はなさそうだ。
「ロバートさん、ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします、アリシア様」
「今の私は平民ですから、様はいりませんよ。
それよりむしろ、私の方こそ、ロバート様とお呼びした方がいいかしら?
貴族ではなくとも、ボルグ王国有数の大商会のご子息。
その権力は、並みの貴族をしのぐでしょう。
ただの平民にすぎない私が、馴れ馴れしく呼ぶのは失礼かもしれませんね」
「いや、いや、いや!
様など不要です、アリシア様!
どうぞ、これまで通りお呼びください」
慌てた様子で否定してくるロバート。
やはり、慣れ親しんだ呼ばれ方でないと、違和感があるのだろう。
「そうですか?
では、これまで通りロバートさんと呼ばせていただきますね。
それより、私が『さん』づけなのに、ロバートさんが『様』をつけて呼んでいては、格好がつきません。
どうぞ、アリシアとお呼びください」
アリシアの提案に戸惑いがある様子だったが、少しすると諦めたように呟いた。
「で、ではアリシアさん、と」
「はい!」
アリシアは気がつかなかった。
その笑みは柔らかく、ロバートの心を揺さぶっていたということに。
そして、その揺れによって、ロバートの思いが溢れだそうとしていたことにも。
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