【第42話】西へ

「何か、気が遠くなりかけたよ……」


「あ、はい、ごめんなさい」


 リューンは息を整えながら、でも前みたいに責めるような目じゃなく、ちょっと恥ずかしそうに私を見上げた。


「落ち着いた?」


「はい、落ち着きました、ホントにごめんなさい」


「ぷふっ」


 リューンは口元を押さえて吹き出した。


「あっははははは」


「ちょ、リューンってば。ぷっあははははは」


 何か、ちょっと懐かしかった。


 つい数日前の事なのに、もう随分月日が流れたようにも思える。


 たった何日かの間に、いろんな事が起こった。


 それはきっと、私一人じゃ受け止めきれないほどの苦難。


 リューンがいたから、いてくれたから、私は生きる事ができた。


 そして、たしかな希望も持てた。


 一頻り笑ったあとで、私はリューンと目線を合わせて静かに見つめる。


「リューン言ってくれたよね、私と契約した事、後悔してないって……私も後悔なんかしてないよ。リューンと契約した事も、魂を共有した事も。それから……リューンの封印を解いた事も」


 リューンは黙って頷いてくれた。


 それから、そっと抱きしめてもくれた。


「こうしてると、嬉しい……」


 私も、リューンの背中に腕をまわす。


「うん、僕もだよ……」


 ただ、いつまでも二人で抱き合っているわけにもいかない。


 名残惜しいけど、私はそっとリューンから腕を離す。


 それからリューンも、少し戸惑いながら腕を引いた。


 リューンも、ずっとこうしていたかったのかな? なんて、ちょっと都合のいい事を考えてみる。


「そう、だよ。たぶん」


 リューンの黒髪が風に揺れて、高く昇った日差しをきらきらと反射する。


 眩しそうにリューンは笑った。


「ずっと……いつまでも、ね」


 その黒く深い瞳に全部飲み込まれそう……。


 ……ダメなやつだこれ。


 私って、やっぱりチョロい。


 ぷるぷると首を振って、正気を保つ。


 もうこの辺りで、話題を変えよう。


「アルマン様に、挨拶くらい、したかったな」


「それも止めた方がいい。あの人にはいろいろ協力してもらったから、これ以上は……」


「そうだね。これ以上迷惑はかけられないね」


 私は、これからたくさんの事を諦めないといけないんだろうな。


「それに、今頃教会は大騒ぎだと思うよ」


「え? どうして……?」


 リューンが私を見上げてぱちりっと片目を閉じた。


「あの、なんとかいう豚の大司教」


「フェリクス大司教?」


「うんそうそう、その豚がね……どうやら乱心して暴れたらしいよ?」


「乱心って……気が触れたって事?」


「あ、そうだね。そう、気が触れた、


 リューンは小悪魔のように妖しい笑みを浮かべた。


「ち、ちょっとリューンっ。もしかしてっ……」


「まあ、ちょっと反省を促すために、素晴らしい幻影を見てはもらったけど?」


「リューンっ、誰も傷つけないって約束したよねっ」


「僕は誰も傷つけてないよ? 、ね」


 それはとても楽し気な、まるで夏の向日葵のような少しの曇りもない笑顔。


 そっか、リューンの中で、フェリクスは名前さえないただの豚なのね。


 まあ、豚だけど。


 私を獣扱いして、鞭を打ち付けた豚だけど。


 あ、なんか段々腹が立ってきた。


 うん、なんかいいや。


「そうだね。傷つけてないよ」


 うん、あいつは豚でいい。


 惜しむらくは、気が狂ったあいつを直接見られない事かな?


「これで、アルマン様、少しはやり易くなるかな?」


「どうかな、腐ったヤツはまだまだいるみたいだし」


「そうだね……」


 でも、少しはすっとした。


 いいのかな、聖女見習いなのにこんな陰な感情。


 あ、そうか、もう聖女見習いじゃないんだっけ。


「ころころ表情が変わって、いつのもかわいいお姉ちゃんに戻ったね」


「え? や、あ、あのっ」


 リューンっ。それはダメぇ!


 心臓にいっぱい矢が刺さるの!


 耐えられないの!!


「じゃあ、行こうか。西へ、ベルクール領へ」


 やだ、相変わらず切り換え早い。


 うん、だけどね、目的はベルクール領ではないのよ。


「先ずは、ベルクール家の全財産をいただく」


「本気なんだね、リューン……」


 リューンはやる気満々って感じだ。


「本気だよ? だってお姉ちゃんを傷つけた、言ってみれば賠償金だからね。容赦はしないよ」


 これは、たぶんもう止められない。


 まあ、賠償金だから、使いきれない分は、困ってる人に寄付すればいいかな。


「あ、リューンっ。もうそれはいいけど、行ってもらいたい所は、ベルクール領の先なの」


「そうなの?」


 リューンはちょこんっと首を傾げた。


「そう。ベルクール領を越えた更に西にね、国境沿いの小さな町があるの。山の裾野にある、綺麗な町よ……」


「もしかして……」


「うん、故郷なの。この国を離れる前に、ちゃんと見ておきたい。ちゃんと見て、心に焼き付けておきたい」


 それに、お父さんとお母さんの顔も見たい……。


 それから、弟のお墓に、お別れを言いたい。


 リューンは腕を組んで、眉をひそめて、難しい顔をしてる。


「ダメ……かなぁ……」


 暫くじっと私の目を見つめて、何かを考えているように見えたリューンは、不意に下を向き、それからふっと顔を上げた。


「そうだね、そうしよう。両親にも会えるように何とか考えよう」


「いいの!?」


「それが、お姉ちゃんの望みなら、ね」


「うん! ありがとうリューン!!」


 私たちは手を取り、西へと歩き始めた。



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